人間関係や仕事上でのトラブルなど、少しのミスが思わぬ大きなミスにつながることもある。人生の様々な局面で「誤る」ということを実感し、不安に駆られる私たちに「仏教的には生まれたのも間違い、歳をとるのも間違い、死ぬのも間違い、全部間違いですよ」と流暢な日本語で返すのは、18年間曹洞宗安泰寺の住職を務めた、ドイツ人のネルケ無方さん。厳格なプロテスタントの家庭に生まれながら、仏道に帰依することとなったネルケさんは、現在では仏教の教えを広める活動として、多数の講演会への出演や著書の執筆に励む。その他にも大阪城公園にてヨガと坐禅を主催するなど仏教を広げている彼に、「誤る」ことについて仏教とキリスト教、日本と欧米の観点からお話を伺った。
(この記事は2022年8月に発行された『XD MAGAZINE VOL.05』より転載しています)
二元論と誤り
16歳のとき、高校のサークルで坐禅と出会い、仏教の僧侶を目指しはじめたネルケ無方さん。ドイツの大学で哲学と日本学を専攻したのち来日し、以来仏教の道を歩み続けている。キリスト教徒の家庭に生まれながらも、人生の意味とその実践を仏教に求めた経緯をもつネルケさんに、取材冒頭、キリスト教と仏教においての「誤り」の判断の違いを尋ねてみた。
ネルケさん「仏教ではそもそもこの世に生まれたこと自体が、“誤り”です。我々がこの世に生まれたのは、『業』つまり前世の“誤り”があったからです。完全な人間は生まれてこないという宗教観ですね。なぜなら仏教、とりわけ禅では、物事を二元論的な分別に捉えることは、間違いであると考えられているからです。そしてそれを乗り越えるのが仏教の狙いといえます。かといって現実では、この二元論的な判断からは逃れられない。ではどうすればいいのか。
日本で初めて生まれた法である聖徳太子の十七条の憲法には、『世の中には私が正しいと思ったことを相手が間違っていると思っているときがあり、その逆も然り』というようなことが書かれています。善か悪かの基準は誰にもわからない。また、聖徳太子は『我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。共に是(こ)れ凡(ただ)夫(ひと)ならくのみ』とも書いています。つまり私もあなたも同じ凡夫(仏教の道理をまだ十分理解していない者)で、互いに間違っている。それを認めて、『和を尊ぶ』、つまり仲良くしようじゃないか、というのが当時の解決方法で、仏教の精神が影響していると思います」
「和を尊ぶ」。それは日本的な考え方とされながらも、現代の情報過多な時代においては、忘れかけてしまっている価値観ではないだろうか。罵詈雑言が飛び交うのが当たり前になってしまったネット社会のなかで、もはや「仲良くしよう」などと言える人も少ない。私たちは物事を何事も、「正誤」の判断基準ではっきりと分別をつけて決定してしまいがちだ。仏教の文化はそれをしなやかに否定し、広々とした思考の余白を私たちに与える。
ネルケさん「キリスト教の場合の『原罪』という言葉は仏教の業と似ていますが、どちらかというと人間が背負うものというよりかは、『神様から命をいただいている』という観念が強いです。聖書によれば、最初に創造されたアダムとイブは、エデンという楽園で、楽しく遊んでいた。しかし神様に唯一禁じられていた知恵の実を食べてしまい、エデンから追放されてしまう。知恵がつくことで男女の分別がついた、つまり二元論的な分別について、キリスト教も仏教とは違う言い方で指摘しています」
楽園の禁断の果実の話はキリスト教徒でない人も聞いたことがある有名な話だろう。改めて二元論的分別という観点で見ると、現代社会にも、ジェンダー問題や差別など、この果実は至る所に散らばっている気がしてならない。二元論的価値観ではなく、いわゆる「グレーゾーン」の存在にこそ目を向けるべきであり、そもそも私たち自体が、決して絶対的なものではない、曖昧な存在であることに気づかされる。
責任の所在
ネルケさん「しかしキリスト教の文化圏、主に欧米では『契約』や『法律』というかたちで白黒つける傾向はあります。日本では、契約的なことは二の次で『信頼』が優先されるのが私の印象です。キリスト教と仏教の大きな違いとして、仏教には神様というものが登場しません。ブッダは神様ではなく、悟った人間です。キリスト教には、人間を超えた神の存在があって、『キリストによる十字架の救いを信じれば、神は人間を守る』という『契約』を結びます。契約は絶対的なものなので、キリスト教にはこれが正しい信仰だという二元論的な境界線が最後まで残ってしまうとも言えます。
またキリスト教は自己責任とか責任感はもちやすいけれども、何か問題が起きたときに、責任者のみを一方的に責めて犠牲にするという考えに陥りやすい。そうすれば自分たちは正しいということになりますから。
一方で仏教には『縁起』という言葉があります。すべての存在は無数無量という膨大な数の因縁によってつながり合っている。誰の責任かというとみんなの責任。しかし、これはこれで責任の所在が曖昧になるため、空気、時代が悪かったと考えてしまう問題があるともいえます。日本はどちらかというと、誤っても当然じゃないかという考え方が昔からあり、聖徳太子も憲法第十条の最後には、どうせお前も俺も凡夫なのだから、みんながやっていることに従いなさいと言っています。でもそのみんなが間違っているときもありますよね。
たとえばコロナ禍でいうと欧米では、みんなマスクをつけたがらず、国は特別な法律をつくって罰金制にしたことで、やっとみんなが従った。私の母国ドイツでは、警察官がマスクをつけない人々の身元を確認していました。今は法律も変わり、ほとんどの人が外でマスクをしていません。一方、日本ではそういった法律がなくとも、メディアで報じられて周りがマスクをつけはじめると、それに従う。ところがたとえば『屋外ではつけなくてもいいよ』となったとしても、誰も取ろうとせず本音も言えない。『おかしいんじゃないか』と言ってしまったら、叩かれてしまうかもしれません」
現代では、誤ってしまったときのバッシングも大きい。そんななかで過剰に自分の「誤り」を恐れてしまうことが、他人が誤ってしまったときの不寛容さにつながっているのかもしれない。コロナのように責任の所在が不明確でも、「私は正しい」などと信じ込み、知らず知らずのうちに他人を追い込んではいないだろうか。そうした考え方は日本人の「自己犠牲の精神」も関係している、とネルケさんは語った。
ネルケさん「『自分はこれだけ犠牲にしているのに』だとか、『自分は正しい』と人は言いたくなる。しかし、『集団のために犠牲になっていること』が果たしていいことかどうかという疑問もありますね。それは集団から期待されたことかもしれませんが、本当に優先すべきことなのか自分で考える必要があります。長い目で見たらいいことだとも限らない。必要以上の自己犠牲はやめよう、と考えることもできます」
イエスのように犠牲になってくれる神の子は日常生活にはいない。そのため、一番身近な「自分」を簡単に犠牲にしてしまうのが癖になっているともいえる。そしてそれを、他人を責める道具にしてしまう恐ろしい「自分」もいる。「誤り」に対して過度な罪悪感を抱かず、ポジティブな姿勢をもつにはどうしたらいいのだろうか。
ネルケさん「英語でいう『トライアンドエラー』の精神も重要ではないかと思います。人生や社会で絶対に間違わないようにするのは難しい。企業も絶対に損しないようにすると、経営が成り立ちません。間違って当たり前。仏教的には生まれたのも、歳をとるのも、死ぬのも、全部間違いですから(笑)。
もし一度も失敗したことのない人がいるとしたら、かえって信頼できないともいえます。とことん誤ることで光が見えてくる。私は『迷いは悟りの第一歩』 (新潮新書、2015年)という本を以前書きましたが、本のタイトルが示すのは『迷って、いつか悟りがある』という意味ではありません。『今迷っている』ということに気づくことが悟りの一歩になるのです。だから逆に『俺は迷っていない』『いつも自分を犠牲にしている』という“善意”の人ほどほとんど自分が見えておらず危うい。
私は浄土真宗ではないですが、親鸞さんはこの考えを強調し、極楽浄土は善人よりも悪人に開くと言いました。なぜなら自分が誤っているという自覚があるからです。キリスト教で顕著だったりしますが『自分の誤りをなかったことにする』のは決して悟りではありません。自分の誤りや迷いに自信をもてばいいと思います。恐れていてはなにも生まれません」
風通しをよくする
ネルケさんは現在、毎週日曜日の朝6時から大阪城公園の「隠し曲輪(くるわ)」で街の人々とともにヨガと坐禅を行っている。会場となる「隠し曲輪」は、出入り口が狭いため気づかれにくく、兵士を隠すために使われたことから呼び名がついた。天守閣のすぐ近くに位置しながらも、草木が生い茂りひっそりと佇み、石垣からは天守閣と大阪の街並みが一望できる。小さいながらも開放的な空間で、のびのび座禅とヨガをする姿を想像するだけで気持ちがいい。そんな活動に話を膨らませていると、坐禅もヨガも「誤ること」を肯定するものだとネルケさんは語る。
ネルケさん「禅宗の中心は座禅をすることですが、ただ座る行為には、なんの意味もありません。私は禅の本質は『ゲームを降りる』だと思います。たとえば、テストの点数や営業成績などわかりやすい数字を追いかける人間の日常は、まるでゲームのなかでポイントを稼いでいるようです。実際の、現実世界ではライバルがいたり、年齢とともにスペックが下がったりとなかなか思い通りの『ゲーム』はできませんが(笑)。
仕事で失敗したとき、人はうまく謝ろうとしますね。謝って、ボスの機嫌を少しでも損ねないようにすることで、失うポイントを最小限にし、また次のポイント稼ぎへと向かえる。『謝罪をするときは90度頭を下げる』など、ノウハウばかりが先行するのもそんなポイントの増減が優先されるからかもしれませんが、本当は謝罪でもなんでもない。本当に申し訳ない、と誠意を伝えることは、演じようとするものではありません。そういうポイント制のゲームを自ら降りるということが禅の本質だと思っています。
その場しのぎのゲームを降りて、『新しいゲームを考える』、つまり自分の今いる土俵を変えて、新しい選択肢を増やそうと試みるのも手だと私は思います。そうするには、いろいろ失敗を重ねないとうまくいきません。『誤る』ことは見えていないものを見るためにとても大事なんです」
「ポイント稼ぎ」に必死になって、自分の誤りにも気づけず、見えるものも見えなくなってしまう。SNSでの誹謗中傷やいじめ、差別発言など、現代で蔓延る多くの問題はそういった盲目さの、氷山の一角ともいえる。こうした問題に対して私たちは、自他ともに誤りを許すことができるだろうか。
ネルケさん「仏教の『慈悲』はキリスト教の『愛』に比べて少し受動的です。自分から進んで救うというよりかは、求められたらそれに応じる姿勢。キリスト教の方は積極的といえば聞こえがいいですが、『上から目線である』ともいえます。むしろ、あなたも失敗したけれども、私も失敗しているし、次はしないように互いに考えようという仏教的なアプローチの方が、私は逆に優しいと思います。
大きな傾向を話すと、日本人は無宗教とも多宗教ともいわれます。けれど現実に一番意識している存在は『ご先祖様』と『世間体』なのかなと思います。周りの目を気にするあまり、失敗にすごく敏感。だからこれからの社会で特に必要とされているのは『風通りをよくする』ということだと思います。程よい穴をつくってあげて、みんなが生活するのに良い外気を共有する。
すぐ謝ったり、自分を犠牲にすれば済むことはたくさんあるけれども、みんながいつも自分を犠牲にしてしまったら、いつまで経っても幸せな世界になれないし、生まれてきてよかったという実感はもてないですよね。自己犠牲は、程よくすることが大事です。チーム内でも、たまには自分ひとりの気持ちや時間を大切にする。そのためには、とにかく自分から風通しをよくするように努めることが大事。いい意味で誰もが失敗してもいいんだという雰囲気をつくること。失敗してもいいから新しいゲームを楽しもう、新しい風をみんなで感じよう、といった気持ちを心に留めておくことです」
取材・文/豊田名帆 写真/大西文香
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