「スポーツマーケティング」という言葉が初めて使用されたのは1979年。以降、その重要性は年々高まっている。日本でも市場規模は6.7兆円(日本政策投資銀行・2014年)となったスポーツ産業において、ブランディング、プロモーション展開、マーケティング戦略といった概念は不可欠なものとなっている。
数ある中でも、最も人気の高いスポーツの一つといえるのがプロ野球だ。実に、日本人の5人に1人となる約2500万人が、毎年球場に足を運んでいる。
このプロ野球の世界に「顧客体験」という視点を導入したのが、パシフィックリーグマーケティング株式会社マーケティング室室長の荒井勇気氏だ。9月4日に開催された「CX DIVE」における荒井氏のセッションでは、スポーツ×顧客体験の最先端が語られた。
テクノロジーの導入で観客動員数を伸ばすパ・リーグの球団たち
まず、パ・リーグの球団全体の動きを見てみよう。
今は大勢のファンが球場へと足を運ぶプロ野球も、1980年代は「暗黒時代」と言われ、球場には閑古鳥が鳴いていたパ・リーグのスタジアム。しかし、そんな時代も今は昔。現在は、球団それぞれが独自にマーケティング活動を実施し、自球団のファン獲得に努めている。特に、近年活発になっているのが、テクノロジーを活用し、ファンに新たな「体験」をしてもらう施策だ。
埼玉西武ライオンズでは、発券不要の「クイックチケット」を開発し、スマートフォン上で利用可能なチケットを発行することによって、球場に入る際の負荷を低減。さらに、半券情報は球団側で管理し、ビッグデータの活用につなげている。
千葉ロッテマリーンズでも、試合中の顧客体験を高めるためにスマートフォンを活用し、ダウンロードした公式アプリがビジョンや場内演出の音楽に合わせて反応する機能を搭載。アプリを起動しておけば、スタメン発表やホームラン、勝利後の演出などで、スマートフォンの光が球場を埋めつくし、球場全体で一体感を味わえるというエンターテイメント体験を提供している。
一方、他球団に先んじてCRM構築を実施したオリックス・バファローズは、ファンのデータ分析から、18万円という高額な年会費の「エクストラプレミアムメンバー」を設立。ユニフォームの提供や全試合への入場、スポンサーらを招待するパーティへの参加資格権といった特典を付与するこのファンクラブには、毎年定員200名をオーバーする申込みが殺到するという。
そんな施策が功を奏し、2005年には825万人だったパ・リーグの年間入場者数は、2017年に1111万人へと右肩上がりに増加。1試合平均の動員数は2万5000人にものぼり、スポーツというカテゴリーのみならず、日本を代表するエンタテインメントコンテンツの一つに成長した。顧客体験へのフォーカスが、パ・リーグのファン拡大を後押ししているのだ。
オンライン動画配信への注力と熱心なサービス改善
では、荒井氏の所属するパシフィックリーグマーケティング株式会社では、どのような取り組みを行っているのだろうか?
2007年にパ・リーグ6球団の共同出資によって設立された同社は、6球団共同のイベント開催でリーグ全体の盛り上がりを演出するマーケティング活動や、各球団公式サイトのインフラを構築することなどに取り組んでいる。
ネット動画配信サービス「パーソル パ・リーグTV」や、公式アプリ「パ・リーグ.com」の運営も行い、得られた収益を球場設備やファンサービス、選手の育成などに再投資している。
同社の取り組みの中で、重点施策に位置づけられるのがパーソル パ・リーグTVを始めとするオンライン動画配信だ。テクノロジーの発展は、これまで球場に行くか、テレビでしか味わえなかった感動を、パソコンやスマートフォンでいつでも手軽に体験することを可能にした。
パーソル パ・リーグTVは2012年からサービスをスタートし、月額1,450円(パ・リーグ6球団のFC会員は950円〜)のサブスクリプションサービスや、1day会員、セ・パ交流戦のみの会員など、多彩なメニューを用意している。
パーソル パ・リーグTVで配信されるコンテンツは、単なるライブ中継にとどまらない。デジタル配信だからこそ可能なファンの細かいニーズに対応している。3試合を同時に視聴したいという声や球場の雰囲気を体感するために、実況を入れずに球場の音だけを楽しむ副音声配信、複数台のカメラを使ったマルチアングル配信、野球ファンの声優を招いた音声配信など、さまざまな施策を実施。2018年からは、VR配信もスタートさせた。しかし、荒井氏によれば、これまでの取り組みの中には成功したものだけでなく、失敗に終わったものも少なくないという。
荒井「顧客のインサイトからは、今投げているピッチャーとバッターとの対戦成績をはじめとする細かなデータを見たいという要望が寄せられていました。そこで、映像と同時に詳細なデータの配信を実施したのですが、そんな配信は限られた人にしか受け入れられない行き過ぎたサービスだとわかりました。しかし、そんな失敗も、施策を実行してみなければわかりません。トライアルアンドエラーを重ねながら、サービスをブラッシュアップする日々です」
同社では、パーソル パ・リーグTVのみならず、DAZNをはじめ、ソフトバンクの運営する「パ・リーグLIVE2018」「Rakuten TV」、海外向けには「FOX台湾」など、さまざまなメディアと契約し、パ・リーグの試合を配信している。
荒井「自社ブランドだけで試合を届けた方が会員数が増えるかもしれませんが、僕らのミッションは『新しいファンの獲得』です。そのため、パーソル パ・リーグTVではコンテンツを囲い込むのではなく、外部にも提供することを選びました。
DAZNにはJリーグをはじめとするさまざまなスポーツ配信があるし、Rakuten TVにはスポーツに限らず映画の配信もある。外部の人々にも届けることで、まだパ・リーグの魅力に触れたことのない新たなファンを開拓しているんです」
顧客体験向上のための「真の課題」
テクノロジーを活用して、スポーツマーケティングを積極的に実施しているように見えるが、荒井氏が見据えているのは太平洋の向こう側の存在だ。
同社がマーケティング活動を始めるにあたって、ベンチマークとされるのが米国のメジャーリーグベースボール(MLB)の取り組みだったという。
荒井「20年前、日本のプロ野球とMLBとの売上はほとんど変わらないものでした。しかし、MLBでは、各球団ではなくリーグ全体としてのマーケティング活動を開始。その結果、日本のプロ野球とMLBでは、20年間で10倍以上も売上に差が開いてしまったんです」
マーケティングによって日本のプロ野球もさらに売上を伸ばしていけるはず。そのために同社は、PDCAをすばやく回すことによって、顧客のニーズに最適化したサービスを提供しようとしている。そこには、荒井氏の顧客体験に対する強い思いがあった。
荒井「我々の役割は、顧客のニーズに合わせてメニューを充実させること。それによって、それぞれの顧客がニーズに合ったサービスを選べる環境を整えているんです」
顧客をマスではなく個人として捉え、それぞれのニーズを満たすことで、体験の価値を最大化していく。荒井氏にとって、「顧客体験」とは、常に一人ひとりに寄り添ったサービスを提供することを指すという。
しかし、真の顧客体験向上のためには根本的な課題があると、荒井氏は語る。
荒井「中長期的には、パシフィックリーグマーケティングは発展的に解消していくべきだと考えています。セ・リーグを含めた12球団でのマーケティングができれば、顧客により豊かな体験を提供できるはず。今は各球団間の抱える問題があり難しいのですが、パ・リーグでの成功事例を生み出すことで、12球団でマーケティングに取り組む未来を作っていきたいと思います」
魅力的な顧客体験のためであれば、自社の存続も辞さないという荒井氏は、その価値を誰よりも深く知る人物といえるだろう。顧客体験が豊かになることで、新たなファンが生まれ、その収益がプロ野球をさらに魅力的なものに変え、ファンの体験はますます豊かになる。荒井氏は、そんな好循環が生み出すスポーツの未来を見据えているのだ。