近年、カスタマーエクスペリエンス(CX)が、重要視されつつある。注目の集まるCXについての今を知り、これからを考えるきっかけをつくるイベント『CX DIVE』が2018年9月4日に開催された。
10を超えるセッションの中でも、意外な組み合わせで参加者の興味を引いたのは、エンターテイメントとCXを考えるセッションだ。
このセッションに登壇したのは、EXILE等が所属する芸能事務所として知られる株式会社 LDH JAPANのCDO(チーフ・デジタル・オフィサー)兼 執行役員 兼 デジタルマーケティング本部 本部長・長瀬次英氏だ。
同氏は2018年「Japan CDO of The Year」を受賞するなど、デジタル領域で数多くの輝かしい実績を積み重ねてきた人物。インスタグラム日本事業責任者、日本ロレアルのCDOを経て、8月にLDH JAPANに参画している。
LDHにとって、芸能事務所は一つの顔に過ぎない。飲食、ファッション、ダンススクール、フィットネス、ウェディングといった幅広い事業を展開。そして、LDH EUROPE、LDH USAなど世界へも展開している。
同社で多様な顧客を分析し、横断的にデジタル領域の戦略を立てる長瀬氏には、どのようなCXの今とこれからが見えているのだろうか。
顧客のエクスペクテーション(期待)を知る
長瀬氏は登場とともに、2つのサプライズをオーディエンスに提供した。一つは、プロフィール写真のスーツ姿ではなく、あえてカジュアルな格好で登場したこと。もう一つは、プレゼンテーション用の資料を用意しなかったこと。
このサプライズは、顧客のエクスペクテーション(期待)を理解する大切さをオーディエンスに体験してもらうために、あえて行われたものだった。
長瀬「私はこの段階で、すでに2つ、みなさんのエクスペクテーションを裏切らせていただきました。CXを考える前に、私たちは顧客が何をエクスペクテーションしているのかを知らなくてはいけません。しかし、これは簡単なことではではない。データを眺めていても、あまり見えてきません」
データからも見えてこないというのであれば、期待はいかに把握すればよいのだろう。ここで長瀬氏は、「ミュージシャンのライブに行って不満に思ったことがある人はどのくらいいるか」と会場に聞いた。手を挙げる人はまばらだ。
長瀬「そう、満足している気がしますよね。たしかにメインである音楽自体はとても楽しい体験かもしれません。でも、僕はいろいろ不満があるんですよ。まずはライブの情報を手に入れることから不便ですし、チケットを買うのも一苦労。当日になれば、スタジアムに行く方法を調べなくてはいけない。
会場に着いても、入り口がわかりにくい。自分の席を探すのも大変。そして、大きな会場にはビールが売ってないですよね(笑)。ライブは楽しいんです。さまざまなサプライズがあって、強烈な体験ができる。ですが、まだまだやれることがあるはずです」
一見、満足しているように思われる体験にも、実は不満は潜んでいる。長瀬氏が語る不満に、たしかに…と、会場はうなずいた。顧客が何に期待しているのか。そのありかを探すことが簡単ではないことを、会場の参加者は身をもって理解した。
感覚的な情報が、現場にはある
では顧客のエクスペクテーションを知るために、必要ものは何だろうか。
飲食店であれば、顧客データとPOSデータを紐付け分析するといった手法がある。たとえば、1回目の注文内容を再来店時に活かして、顧客にレコメンドするといったこともできるだろう。しかし、それで本当にCXが改善されるだろうか、と長瀬氏は問う。
長瀬「人は変わります。だれと一緒にいるか、どんな体調か、どんな気持ちか。来店ごとに、条件がまったく違うはずです。だからこそ大切になるのは、現場なんです。現場でしか手に入らない、雰囲気、ニュアンスといった感覚的な情報を蓄積していくことが、私の最大のチャレンジです」
年齢や性別、購入履歴という「データ」だけでは、顧客のエクスペクテーションは見えてこない。長瀬氏は、現場でニュアンスや雰囲気を感じ取るために、顧客の「表情」に注目しているという。
長瀬「ライブであれば、現場の何人が笑っているか。どのくらい笑顔が続いているか。バラードが歌われた時にどのくらいの人が泣いているか。顧客がどのくらいエモーショナルな体験を得ているのか。それがこれからのKPIになるかもしれません」
EXILEのツアーでは、日によって演奏する曲目や順番が変更されることがあるという。それはメンバーが感じ取った会場の雰囲気や盛り上がりで地域の特性を推測し、常に改善をしているからだ。
行動を促す“アクショナブルデータ”の重要性
現場で表情を見ることで雰囲気やニュアンスを感じ取ることが、顧客のエクスペクテーションを高めるためには必要不可欠だという。だが、経験によって感じ取り方が変わりそうな「表情」をどう読み取っていけばいいのだろうか。
長瀬氏は、顔認証技術などテクノロジーの発展に期待する。技術の進歩により、顧客のエモーションを数値化し、これまでとは異なるデータの蓄積ができるかもしれない。「感情」をデータとして取得可能になれば、エンターテイメント業界が切望している顧客のエクスペクテーションを知る術になる、と長瀬氏は語る。
長瀬「どうやったらヒット曲が作れるのか。これはエンターテイメント業界の究極の課題です。音楽を届ける方法は配信が中心になったことで、CDの販売枚数やヒットチャートだけでなく、再生回数や、再生時間、リリースからどのくらい長い期間再生されているかなどをデータとして得られるようになりました。しかし、さらに重要なのは ”なぜ、その時、その人は、その曲を聞いたのか”という感情のデータではないでしょうか」
親しい人が亡くなった時に「この曲」を聞いた。
友人と海に行く車の中で「あの曲」を聞いた。
音楽を聴く現場において、曲を選択するトリガーとなるメロディや歌詞のデータがあれば、ヒット曲をつくれるかもしれない。
「つまり、行動を促す“アクショナブルデータ”が、今後必要になっていくのです」と長瀬氏は会場に訴えた。
適切なCXを設計するには、顧客のエクスペクテーションを把握することが欠かせない。それを把握する上で重要になるのは、現場でしか拾えないニュアンスや表情、雰囲気を数値化して集めることだ。
そのニュアンスや雰囲気がデジタルで把握できるようになり、人の行動を促すデータが取れるようになることが、今後のエンターテイメントでは必要になると長瀬氏は語った。
長瀬氏はセッション中に、会場の照明を明るくさせた。オーディエンスの表情を見るためだ。現場を大切にするという姿勢は、エンターテイメント業界に限らず、さまざまな分野で応用できる。そのことは、セッションに参加したオーディエンスがだれよりも実体験できただろう。