クリエーター、そしてビジネスパーソンにとって欠かせない数々のツールを生み出し、世界中へと届けているAdobe。その一方で、「世界を変えるデジタル体験」をミッションとする彼らは現在、顧客体験(CX)の向上を支える新たなサービス「Experience Cloud」の提供に力を入れ、企業が“戦略の中心にCXを置く”重要性を強く打ち出している。
自社のサブスクリプションサービスにおいて、8年に渡り「CXM(Customer Experience Management)」という課題に向き合ってきた同社は、はたしてどのような体験を顧客に提供し、発展してきたのか? そして、その経験をもとに、それぞれの企業が抱えるCXの課題をどう解決しようというのだろうか?
7月24日に東京で実施された『Adobe Symposium 2019』では、「顧客体験マネジメント”CXM”をビジネス変革の中心に」をテーマに、Adobe会長・社長兼CEOのシャンタヌ・ナラヤン氏をはじめ、アドビ システムズ代表取締役社長のジェームズ・マクリディ氏らが登壇するKeynote(基調講演)が行われた。約2,300人のビジネスパーソンが参加したその講演から、Adobeが見据える次世代のCXMの姿が見えてきた。
8年前に迎えたAdobeのサブスク大転換
2011年に「Creative Cloud」を立ち上げ、デザインツールなどの月額制サブスクリプションモデルを導入したAdobe。背景には、顧客に高価なアプリケーションを都度買い切ってもらう、パッケージ販売型のビジネスモデルが抱える構造的な問題があった。
当時から「Illustrator」や「Photoshop」などで、世界中のクリエーターが愛用するアプリケーションの地位を築いていた同社。しかし、「パッケージ版で行われていた『1年半〜2年に1回程度のバージョンアップ』では、次々とイノベーションが実現される時代のスピードに追いつけないという危機感を抱いていた」とナラヤン氏は語る。
また、購入時以外の顧客との接点が少なく、継続的なコミュニケーションを行うことも難しかった。そこで同社が選んだのが、上記の大胆な方針転換だったのだ。
とはいえ、当時すでに数十億ドル規模を誇ってきたパッケージ販売モデルを、サブスクリプションに移行していくのは簡単なことではない。ナラヤン氏は、その変化を次のように語る。
ナラヤン氏「サブスクリプションサービスにおいて、ユーザーは不満があればいつでも契約を解除できます。そこで不可欠なのが、『顧客体験』を中心にしたモデルを新たに生み出すこと。私たちはまず、カスタマージャーニーを『発見→体験→購入→利用→更新』と再定義しました。そして、その全てで顧客を喜ばせ、期待以上の価値を提供していくために、『パーソナル・エクスペリエンス』の向上を重視していくことを決意したんです」
だが、一言で「パーソナル・エクスペリエンス」と言っても、顧客一人ひとりに向けて異なった体験を提供することは至難の業だ。特にAdobeのように世界中で数千万人のユーザーを抱えている企業であれば、困難は言うまでもない。
その過程で必要とされたのは、事業、そして企業の「デジタルトランスフォーメーション」だった。
企業中心から、顧客中心のデータ活用へ
「デジタルトランスフォーメーション」という言葉自体は、テクノロジーが急成長を遂げた90年代から使われており、耳馴染みのある人も少なくないだろう。しかし、その内実は大きく変わってきているという。
以前のデジタルトランスメーションは、主に経理、会計といったバックオフィス領域のシステム統合を実現し、効率化による「業務負担や経費の削減」を目的に始まった。その後、00年代には営業やマーケティングといったフロントオフィスの領域でも進展したこの動きは、消費者の接触履歴や購買行動をデジタルで管理することで、「売上向上」へと効果を発揮していく。
だが、変革期のAdobeが必要としたのは、前時代の「企業を中心とした」デジタル化ではなく、「顧客体験を中心にした」それだった。日本法人のアドビ システムズ・デジタルエクスペリエンス営業本部の中川哲氏は次のように解説する。
中川氏「これまでのように、企業中心のデータを用いたシステム『SoR(System of Record)』では、購買の前後のアクションをしっかり把握できず、限界が来ていました。新たな時代に求められるのは、顧客体験を中心にした新たなSoRの存在。顧客を中心に置き、プロファイルデータ、エクスペリエンスデータを集めることで、顧客という輪郭がよりクリアに見えてくるんです」
実際にAdobeでは、顧客体験を中心としたデータ管理を行うために、「データ・ドリブン・オペレーション・モデル(DDOM)」を導入した。各タッチポイントにおける地域別、プロダクト別といった観点からユーザーの行動をトータルで把握し、それぞれのユーザーに対して最適な情報を提供していく。これによって、全てのジャーニーで上質なパーソナル・エクスペリエンスを届けることを実現し、Creative Cloudを成功に導いたのだ。
そして、同社が今注力するExperience Cloudも、この顧客体験を中心としたデータ管理モデルを基盤とするという。
近年、オンラインとオフラインの区別がなくなり、企業はユーザー体験をデザインするために、デジタルテクノロジーを活用するようになりつつある。このニーズに対して、Adobeは自らの経験を元に、新たなデータの概念を用いたCXMツールをBtoBで提供。それによって、世界中の消費者に対してより豊かなCXを届けていく方針だ。
中川氏「ただし、本質的にAdobeがやりたいのは、新たなテクノロジーの提供ではありません。あくまでも我々が目指すのは、顧客を深く理解し、心地よいコンテンツを届けること。それによってユーザーの心を動かし、次のジャーニーへと進んでいただきたいと考えているんです」
パーソナライズを支える「Experience Cloud」の顧客プロファイリング
AdobeのExperience Cloudは、マーケティング、ユーザー分析、広告やEコマースのコンテンツ管理、キャンペーンの効果測定など、カスタマージャーニーのあらゆる局面におけるツールを一つにまとめたもの。これを利用することにより、企業側はシンプルな操作でユーザーのプロファイルを構築、パーソナル・エクスペリエンスの提供が可能になる。
では実際に今、何ができるようになっているのか。前出・シャンタヌ氏は、18年に販売されたビデオ編集ソフト「Premiere Rush」のカスタマージャーニーを例に出しながら、同社がExperience Cloudによって提供する具体的なパーソナル・エクスペリエンスの流れを紹介した。
まず、全てのユーザーとの関係は“匿名”から始まる。公式サイトからPremiere Rushの情報を見た「動画編集に興味を持つユーザー」に対して、そこから離脱して以降も、SNSをはじめとする有料広告などでアプローチ。適切なタイミングで、サービスを紹介できるという。
このユーザーの名前、年齢、性別といった詳細情報を入手できるのは、体験版をダウンロードしたとき。その情報をもとに、さらにコンテンツの内容や通知方法などを適正化し、有料版へのアップグレードを訴求していくのだ。
また、有料登録してもらって以降も、ユーザーとのエンゲージメントは終わらない。利用を続けてもらうためにも、常に適切な情報を届け、きめ細やかなフォローを行い、顧客の求める体験を提供し続けていくことが必要になる。
この技術を裏側から支えているのが「Adobe Sensei」と呼ばれるAIだ。AdobeのCreative Cloudや「Document Cloud」における効率化や質の担保を下支えしているこの人工知能が、Experience Cloudにも搭載されており、ユーザーの行動を常に把握。それぞれが本当に必要とする体験を提案するとともに、3つのクラウドサービスから膨大なデータを学習することで、ユーザーが「次」に求めるものを予測することもできるという。
AIにニーズを先回りして把握させることによって、最適なコンテンツの提供の支援を実現していった。
届く体験の中心には“感動を呼ぶコンテンツ”がある
ユーザーを中心にしたデジタルトランスメーション、パーソナル・エクスペリエンスを提供するCXM、そして、それを支えるAI技術……。これらが融合したExperience Cloudについて「生み出されるROI(費用対効果)は242%に及ぶことも分かった」と話すのは、アドビ システムズ代表取締役社長 日本及びアジア太平洋地域代表のジェームズ・マクリディ氏だ。
「CXを戦略の中心にし、お客様をそれぞれのタッチポイントで満足させることによって、多くのビジネスでこれまでにない機会が生まれています」と同氏が語るその効果は、Adobeの業績にも反映されている。売上高は、14年11月期の約40億ドルから18年11月期には90億ドルへと拡大。今や、デザイン・文書アプリケーションという「モノ」ではなく、世界中の企業に対して「体験」を提供するリーダーへと成長を遂げているのだ。
そんなリーダー企業が目指すビジョンとは――アドビ システムズのエグゼクティブフェロー・石井龍夫氏は、Keynoteの最後を次の言葉で締めくくった。
石井氏「顧客体験の中心には、いつも“感動を呼ぶコンテンツ”があります。パーソナライズされた最適なクリエイティブを、最適なユーザーに、最適なタイミングで届ける。そのためのデータを統合し、リアルタイムで管理することこそ、次世代のCXに求められるものであり、Adobeが提供する価値なんです」
Creative Cloudにおいても、Experience Cloudにおいても、CXを提供する先にあるのは、感動という目的地だ。その意味で、Adobeが目指す顧客体験マネジメントの究極形は、CXを各企業が推し進め、最適なタイミングで最適なコンテンツを届けることで「ユーザーを極限まで感動させていくこと」だといえるだろう。
文/萩原雄太 編集/佐々木将史 撮影/Adobe