川崎中央卸売市場北部市場(以下、北部市場)には、一般に開かれたエリアがある。乾物や調味料、惣菜や輸入食品などを取り扱う食料品店や日用品店が立ち並ぶ、北部市場内の関連商品売場棟(以下、関連棟)。その一角にある「調理室池田」が、今回の目的地だ。都心から電車とバスを乗り継いで、スマホの地図を頼りに市場へと向かう。
市場といっても、北部市場は本来、飲食店や小売店といった事業者のための中央卸売市場だ。当然食べ歩きをしているような人は見かけないし、青果棟をはじめとするほかのエリアには、原則として入場できない。朝8時から一般客の入場が許可されている関連棟に足を踏み入れてからも、カフェがあるような雰囲気は見受けられない。精肉店や乾物屋など市場では馴染みの看板に並んで「調理室池田」の看板はあった。
店内にはコーヒーとパンの焼ける香ばしい空気が満たされ、白を基調とした洗練された空間が広がる。市場で働く人や常連客だけでなく、遠方からわざわざ足を運ぶファンも多い。
オープン当初は「どうしてこんな場所に?」と不思議がられることもあったという。料理家で調理室池田店主の池田宏実氏は「ここでなかったら、無理してお店はやらなくてもいいと思っていた」と振り返る。調理室池田のオーナーでプロデューサーの池田講平氏とともに話を伺い、夫婦で市場という場に店を構えた経緯や顧客を引きつける店づくり、その価値観を探る。
「いつか自分の店を」市場で出会った理想の場所
調理室池田がオープンしたのは2018年12月。当時、市場にはまだ空きテナントが目立ち、活気づく午前中を過ぎると静かな雰囲気となるエリアだった。飲食業界を経て、料理家のもとで腕を磨き、独立した宏実氏。自宅で10年ほど料理教室を主宰してきたが、イベントへの出店やほかの場所にアトリエを借りるなど、次なる展開を模索していた。
一方、主にプランナーとして、15年ほどフードビジネスにおけるブランディングや新規事業開発などに関わってきた講平氏。勤務先の異動で飲食部門から離れることとなり、17歳の頃から抱いていた「いつか自分の店をつくる」という思いを、現実のものにしたいと考えるようになったという。
講平氏「画家が絵を描くように、僕にとっての自己表現は店をつくることだな、と思っていました。ありがたいことに会社でも興味のある仕事をやれていましたが、いったん現場から離れたことで、『自分の店をやるならこんな感じ』とイメージが鮮明になりました。そろそろ店をつくりたいなと考えるようになったんです」
宏実氏が料理教室の仕入れのために通い詰めていた北部市場で「事業者募集中」と書かれた空き物件が出たのは、そんな矢先のことだった。
宏実氏「どうしてこんな場所で店をやろうと思ったんでしょうね(笑)。私は個人で店をやる大変さもわかっていましたし、自分の店を持つことにこだわりはなくて。でも、彼が『店をつくりたい』『市場に物件があるみたいだから、確認してほしい』というので、しぶしぶ買い物ついでに見に行ったら……見つけてしまったんですよね、この場所を。直感的に、ここでならやりたいことができると思ったんです。彼が思い描くイメージ通りの場所でしたし、市場の中に店を構える以上、ある意味閉鎖的な環境で、かつ特殊な営業時間にならざるを得ない。“新たなマーケット”を作る必要があります。まさにそれが、私たちのやりたかったことでした」
北部市場を管轄する川崎市に問い合わせることから、ふたりの店づくりは幕を開けた。けれどもその場所は、そもそも個人事業主に貸し出すことは想定されていなかったという。
宏実氏「『個人でも借りられますか?』と尋ねたら、担当の方には不審がられましたね(笑)。前例もありませんでしたし、もともと倉庫として使われていた場所で、飲食店には貸し出せない、とのことでした」
市場関係者にもプレゼンを行うなど何度も市や市場にかけ合う中で、少しずつ状況は変わっていった。折りしも2018年6月に卸売市場法が改正(2020年6月施行)。既存の条文が大幅に削減され、各市場の裁量によるルールづくりが求められるようになった。毎週土曜日のみ一般開放されていた関連棟にある、換気ができる角地の物件でならと許可が下り、2018年12月に「調理室池田」がオープンした。
宏実氏「最終的には、市場長の鶴の一声で出店が叶いました。空きテナントも増えていましたし、このままにするより、借りたい人に貸してみよう、と思ってもらえたのかもしれません。ここ以外に魅力的な物件はありませんでしたし、許可が下りなければ、無理に店をやらなくてもいいかな、と思っていました。時間をかけてお話しさせてもらってよかったですね」
境界線を曖昧にする、店のあり方
店内は、宏実さんをはじめスタッフの方々が、キッチンでテキパキと調理している。店内を見渡しながら食事をしていると、まるで調理室の傍らにいるようだ。この臨場感はどうやって生まれたのだろう。店づくりを担当した講平氏は「境界線をできるだけ排除したかった」と語る。
講平氏「飲食店ではたいてい、キッチンと客席が分かれていますが、その境界線をできるだけ排除したかったんです。家具が置いてあるのと同じように、冷蔵庫や作業台があるようなイメージです。いわゆるオープンキッチンだと、手もとが見えないように囲いをつくることが多いのですが、それもしたくなかった。保健所の規定や法律をクリアしつつ、そのギリギリを突く表現をした結果、今の形になりました」
「境界線を曖昧にする」のは、キッチンと客席、店と通路といった“目に見えるもの”に限らない。宏実さんは開店準備の頃を「市場の中に“自分たちの別荘”を作るような感覚があった」と振り返る。
宏実氏「店をつくるとなると、借金をして何もかも万全に揃えて……というのが当たり前だけど、無理せず、やれるところから始めたらいいのかな、と。最初はコーヒーカップもなかったんです。紙コップから始めて、毎回コーヒーを飲む常連の方が何人か出てきたので、家からカップを持ってきたんです。それが、イギリスのロイヤルファミリーのマグカップだった。するとみんな、このマグで飲みたがったり、『私も欲しい』と言う人が出てきたから、いくつか仕入れて2Fで売りはじめたりして」
店で使っている皿も、パリにある「Bouillon CHARTIER(ブイヨン・シャルティエ)」という大衆食堂で実際に使われ、もともとはアンティークギャラリーで売るつもりで仕入れたもの。オープン前になかなか皿が決まらず、「とりあえずあるもので」と使いはじめたのが、今では定番となった。パリへ行ったことのある人が、懐かしんで店に足を運ぶこともあるのだという。
そうして、ふたりの日常からゆるやかに「調理室池田」が立ち上がり、その場に惹かれ、人が集まるようになっていった。生活と仕事、あるいは顧客と店という、人の営みや関係性においても、境界線が溶かされ、曖昧になっていく。
講平氏「店は自己表現だと言いましたが、それはお客様がいて初めて成り立つものです。空間に誰がいてほしいかを考えると、“女性だけ”とか“30代だけ”とか、人は偏らないほうがいい。フードビジネスでは『客層を属性で捉える』ことが多いですが、この店ではそうしたあり方は避けたいと考えています」
調理室池田を訪れるのは、長靴姿の仲買人や、仕入れを終えて一息つく料理人、カフェ好きやグルメブロガー、トレンドセッターやアートに造詣が深い人などとさまざまだ。ふたりは「いろいろな人がそれぞれの目的でボーダーレスに、平等に存在できる場所が理想」だと口を揃える。
「市場」のバックグラウンドあってこそ
2018年に店がオープンしてから4年経ち、周囲の様子も変わってきた。個人店の事例ができたことで、ほかにも新たな店が入居するようになり、今では空きテナントもほとんどなくなった。開店から朝8時までの1時間、店を訪れるのは市場関係者のみだが、その多くはテイクアウトでいつも決まったメニューを頼むのだという。調理室池田が、市場に根付いた様子がうかがえる。それでもあくまで、ここは「市場」であるという線引きを心がけているという。
講平氏「私たちのような“変わった店”が存在することで、市場が一般の方にとっても開かれた場になっていたら、とても嬉しいこと。その一方で、中央卸売市場としての本来の役割や機能を損なわないように意識しています。ここは観光地ではありませんし、あくまで“市場の人のためにあるお店”というスタンスは変わりません」
宏実氏「もしかすると『100円コーヒー』を出したほうが、市場の人には喜ばれるかもしれません。でも、私たちの店はそうじゃないことをやるほうが、価値を出せると思ったんです。はじめのほうは『誰か知らない人が来た』と警戒される雰囲気もありましたが、今となっては一目置かれるようになったと感じます。
私たちは市場というシチュエーションをお借りして、インスピレーションを受けて、自分たちの場を表現しています。ですから、市場のあり方を尊重したいですし、市場だからこそできるメニューを常に意識しています」
その象徴的なメニューが、人気のツナメルトサンドだ。きっかけは、市場にある八百屋のリクエストだったという。
宏実氏「顔なじみの八百屋さんに『あそこ借りたの!?』なんて驚かれたのですが、『それならホットドッグが食べたい』とリクエストされたんです。でもせっかくなら市場の利点を生かしたくて相談してみると、マグロ屋さんを紹介してもらえることになりました。それで、自家製のツナメルトにすることを思いついたんです」
市場のマグロを使った「ツナメルトサンド」(650円+税)は、調理室池田の看板メニュー。サクサクと香ばしいパンに、自家製ツナが癖になるおいしさだ。「市場の魚屋さんは魚を食べ飽きているので、もうひとつの日替わりのサンドイッチは必ず肉系のものを用意しているんです」と宏実氏
定番のツナメルトのほか、11時45分から提供するランチメニューは、市場で仕入れたばかりの旬の食材で作られる。冷蔵庫やパントリーはあえて最小限にとどめ、買い置きやつくり置きをしない。その日に売れる数だけを提供するスタイルだ。
宏実氏は市場で「何がおもしろくてここに来たの?」と不思議がられることもあるが、北部市場に通うたび、新鮮な魅力を感じるのだという。
宏実氏「ここにいらっしゃる方にとっては日常でも、みなさん地に足の着いた商売をされていて、この社会を成り立たせている。純粋に好きなんですよね。毎日通っていても、ついカメラを向けたくなる光景が見つかります。今、私にとって、料理の先生は仲卸の魚屋さんや八百屋さんですね」
ときには魚屋で、買うつもりのない魚を勧められることもある。実際に買って、言われたとおりに調理してみる。すると、想像もつかなかったおいしさに出会える──これが料理のヒントになるのだと宏実氏は語る。
さらに市場なら、食材が加工されてから顧客の口に入るまでの距離は、圧倒的に短い。「市場に店を構える」のは、おいしさを突き詰めれば自然なことなのかもしれない。市場とカフェの関係について、講平氏は付け加える。
講平氏「パリやロンドンのマルシェには、どこへ行っても必ずと言っていいほど気持ちのいいカフェがありました。市場とカフェがごく自然に共存しているんです。私たちにとって、市場と調理室は地続きであることが自然なのです」
お客様と店との相互関係で生まれる心地良さ
店舗やスタッフが変わっても、サービスに統一感があり一定の水準でサービスを提供するチェーン店。かつてチェーン店の店舗開発や運営に携わっていたふたりは、「それを実現するにはとてつもない努力と工夫がいる」と敬意を表す。
その一方で、ふたりが表現する「自分たちの店」は、あえてその対極を選んだ。その日の朝、市場で仕入れた食材でつくる、温かい料理と菓子。ほんのわずかしかつくれず、開店から瞬く間に売り切れてしまうものもある。それでも調理室池田は、「今届けたいおいしさ」をつくり続けている。
宏実氏「仕事柄『おいしそう』とは何かをよく考えます。あれこれ飾り立ててパッケージするより、食材が調理されてお客様に提供するまでの道のりが、短ければ短いほど『おいしそう』に近づく気がするんです。市場で買ったものをすぐに調理して、その日のうちにお客様に提供する。ここでは私の目指す『おいしそう』が実現できるんです」
講平氏「パッケージは捨てられてしまうものですし、付加価値をつけすぎる必要はないと感じるんです。久々にフランスへ行って、改めて実感しましたが、ホテルや店にはほとんど冷房はないし、空港はお世辞にもきれいとは言えません。不便なところがたくさんあるんです。一方で日本に帰ると、空港のベルトコンベアにはスーツケースをきれいに拭く人と、持ちやすいように取っ手のほうを立ててくれる人がいる。すごく便利でありがたいことだけど……果たして本当に必要なことだろうか、と思ってしまったんです」
行き届いたサービスを“おもてなし”との見方もできるが、本来は必要のないことまで“サービス”とされている側面もあるだろう。講平氏は「店は『お客様のため』にあるのが大前提」と断りながらも、話を続ける。
講平氏「お客様のご要望にあれもこれもと応えていくと、他店となんら変わらない店になってしまいます。あくまでお店は、私たちがやりたいことを表現していく場であって、私たちにしかできないことを追求しています。お店へのアクセスや包装一つをとっても、この店はいわゆる“効率”や“利便性”とは対極にある。ここにあるのは、現代社会からすれば、お互いに“面倒”をかけなくては、得られない体験かもしれません」
さらに、日々店頭に立つ宏実氏も、言葉を重ねる。
宏実氏「自分たちの世界をしっかりと表現できたら、と思いながらお店をやっているからこそ、もし誰かに『いいね』と思ってもらえたら、それはそれですごく嬉しいんです。心地良い店というのは、お客様がお店に寄り添ってくださるなと感じます。『お店のことを理解しよう』というお客様がいて、もちろん私たちもお客様のことを理解しようとする。その相互関係があると、心地良い体験になるのだろうと思います」
その言葉に、筆者ははじめて調理室池田に来たときのことを思い出した。店に一歩足を踏み入れた瞬間、流れてきた香りに心が躍った。空間を満たす温度感。家具やカトラリーなど細部にまで感じられる潔さ。期待が最高潮に高まった中で頬張るツナメルト。会計の際、思わず「おいしかったです」と伝えたら、嬉しそうに「ありがとうございます」と言葉を返してくれた。ここにあるのは、「お店の人」と「客」というより、「人」と「人」との関係性だ。
講平氏「うちは朝営業だから、お客様が来られると『おはようございます』と声をかけるんです。するとお客様も『おはようございます』と返してくださる。『いらっしゃいませ』では、返事をしようがないですよね。『いらっしゃいました』と言うわけにはいかないし(笑)」
宏実氏「サービスって結局、コミュニケーションだと思うんですよね。日本ではいったんお金を支払うと、一方的になってしまいがちだけど、コミュニケーションなら本来、双方向のはず。だからこそ、私たちは“いつもいる人”として、いつものようにお客様をお迎えする。そうすればきっとお客様にとって居心地のいい店でいられるでしょうし、これからも変わらず、お客様と平等で、特別な関係性を築いていけたらいいなと思います」
取材・執筆/名和実咲 取材・編集/大矢幸世 撮影/伊藤圭