高円寺の銭湯・小杉湯。平日の開店は15時半。
開店時間になると、人々が一番風呂を目当てにどっと流れ込んでくる。近年、SNSなどで銭湯の魅力を語る人が増えており、その中でもよく名前が挙がるのが小杉湯だ。何十年も通い詰める常連はもちろん、ビジネスパーソン、学生など、多様な人々に支持が広がっている。
しかし、銭湯業界全体の状況は芳しくない。都内において平成10年に1248軒あった銭湯の数は平成29年に600軒を割り込み、令和元年には520件まで減少している。
一方、小杉湯には平日に400人〜500人、休日には700人〜900人と、平均の3倍からそれ以上の人々が訪れる。なぜ小杉湯には人が集まるのだろうか。
その理由を知るべく、株式会社小杉湯の平松佑介氏、塩谷歩波氏、菅原理之氏、レイソン美帆氏を取材。彼らが一貫して大切にしているのは、銭湯の本質を見つめながら、顧客の声に向き合い続ける姿勢だった。
銭湯に求められるのは「日常の中にあるちょっとした贅沢」
小杉湯の番頭であり、イラストレーターとしても活躍している塩谷歩波氏は、小杉湯に人が集まる理由を次のように分析する。
塩谷氏「家風呂がない時代には、お客さんは入浴のために足を運んでいました。しかし、家風呂が普及した現在、風呂に入るという価値を従来通り提供しているだけでは、銭湯が衰退するのはやむを得えません。銭湯の捉え方はかつてとは大きく異なっています。
入浴のためだけの銭湯が日常のものだとしたら、スーパー銭湯や温泉は非日常のものにあたります。そんななかで、小杉湯が提供するのは『ケの日のハレ』、つまり『日常の中の非日常』です。銭湯には、『日常の範囲にあるちょっとした贅沢』が求められているのではないでしょうか」
小杉湯は、日常の延長線上であり、手ぶらで来られる銭湯であるために、アメニティを充実させている。フェイスタオルを無料で貸し出し、浴室には備え付けのシャンプー・コンディショナー・クレンジングオイルはもちろん、脱衣所には化粧水、乳液、ボディクリーム、綿棒を揃える。
また80円を支払うことで、オーガニックコットンを利用したIKEUCHI ORGANICのバスタオルも使用できる。IKEUCHI ORGANICや木村石鹸、ハル・インダストリなど「暮らしの中に取り入れたいモノづくりをしている企業とコラボレーション」することで、ちょっとした贅沢と出会える場にもなっているのだ。
平松氏「お風呂に入った後、IKEUCHI ORGANICのバスタオルに包まれると、幸福度が非常に高いんですよね。しっかりとつくられたものを暮らしの中に取り入れていくことが、日々の豊かさにつながると感じています」
小杉湯人気を支える軸となるのが、彼らが生み出した「小杉湯は環境」という言葉だ。小杉湯三代目の平松佑介氏は、銭湯が提供するサービスの本質は「人」ではなく「ハード」だと考えている。
平松氏「銭湯では、番台でお金を支払った後、脱衣所や浴室ではすべてセルフサービスになります。入浴体験の中に、スタッフとのコミュニケーションは含まれていない。お客さんが味わうのは小杉湯という建物であり、環境なんです」
平成16年に、先代は小杉湯をリニューアルしている。水風呂や待合室を設置した際のコンセプトは「30分の入浴時間を1時間にすること」だった。
平松氏「創業以来ずっと、お客さんに心地よさを提供してきました。スタッフの仕事は丁寧に掃除をして、小杉湯という環境を居心地のよいものにしていくこと。これが何より大切なんです」
現場の気づきを大切にすることで具体的な改善点が見えてくる
平松氏が先代から小杉湯を継いだのは2016年。家業として子どもの頃から銭湯に接していたとはいえ、ハウスメーカーや人材関連のベンチャー企業でキャリアを積んできた平松氏にとって、銭湯経営は未知の領域だった。手探りの中で、平松氏は曽我部恵一氏をはじめとするミュージシャンを招いた「銭湯フェス」や、ダンサーによる「踊る銭湯」などの企画を実施。小杉湯の名は、銭湯の魅力を知らない若い世代に広まっていく。
だがスタッフによれば、小杉湯が成長した理由はイベントの効果だけではなかった。大手外資系広告代理店から小杉湯の経営メンバーに転身した菅原理之氏は、次のように話す。
菅原氏「小杉湯には『リニューアルをしたから上手くいった』『この施策をやったからお客さんが増えた』というような、明確な転換点はひとつもありません。毎日、お客さんの要望を聞きながら、アメニティの配置を変えたり、浴室や番台にあるPOPの言葉遣いを変えたりといった小さな試みを積み重ねています。それによって、少しずつお客さんにとって居心地のよい環境を保っているだけなんです」
環境改善に取り組む上で土台になっているのが、番台に座るスタッフたちが書き込む「引き継ぎシート」と、お客さんが意見を書き込む「コミュニケーションボード」だ。引継ぎシートは「番台に座るスタッフみんなとぼくらの往復書簡なんです」と菅原氏と語る。
菅原氏「現場にいるスタッフがタオルを畳んだり、掃除をしたりする合間に気づいたことやお客さんと交わした会話、小杉湯がよりよい環境であるためにどうすればいいかなどを書いてくれています。スタッフ一人ひとりが自分ごと化して日々記入してくれているからこそ、お客さんに寄り添うための具体的な改善点が見えてくるんです」
レイソン美帆氏は、「引継ぎシート」や「コミュニケーションボード」にに寄せられた意見の一つひとつに対して毎日返事を書き込んでいる。
美帆氏「コミュニケーションボードを置いた当初は、お客さんから『頑張ってね』といった温かい言葉が並んでいました。しかし、最近は指摘が徐々に厳しくなってきて(笑)。もちろん、それはお客さんと小杉湯との関係の近さによるものだと捉えています。引き継ぎシートやコミュニケーションボードを利用することでお客さんの声に耳を傾け、寄り添うことを大切にしたいんです」
脱衣所に置かれているマスクは「銭湯に入ったら化粧を落としてスッキリしたいけど、スッピンで帰るのは恥ずかしい」という顧客の声から無料で配布することが決まったという。
※現在はマスクの配布を一時中断している。
小杉湯のスタッフたちは、「引継ぎシート」「コミュニケーションボード」に書かれた提案・指摘を全体に共有し、週1回、半日かけて行われる会議「小杉湯頑張るDAY」で改善方法を話し合っているのだ。
イベントなどで「ハレ」をつくることを意識するのではなく、日々、現場にいるスタッフや顧客のささやかな要望に耳を傾け、地道な改善を行っていく。この取り組みが、顧客に対して、心地のいい環境を実現している。
顧客に向き合い続けることが、「未来」に縛られず小杉湯を大切にすることにもつながる
人材ベンチャーを創業した平松氏や、外資系広告代理店に勤務してきた菅原氏、設計事務所で建築に携わってきた塩谷氏、銀行に勤務してきたレイソン氏。彼らはそれぞれのキャリアを経て小杉湯の経営にたどり着いた。小杉湯の運営にあたって大切にしているのは目標達成思考や「ビジョン・ミッション・バリュー」といった一般的な経営メソッドではなく、「今」を積み重ねていく視点だ。
菅原氏「銭湯の仕事は、一般の企業が持つような目標に向かって仕事を進めて、事業規模を拡大していくという未来志向ではありません。現在の積み重ねによって未来をつくっているんです。重要なのはゴールではなく『道』です。『こうありたい』という態度を保持しながら道を歩き続けること。具体的な業務でいうと、日々、掃除を行い、清潔さを保つこと。心地のよい環境を提供し続けることだと思っています」
平松氏「小杉湯ではお客さんに提供する価値を、『ケの日のハレ』、つまり『日常の中にあるちょっとした贅沢』ができる環境であり続けること、と明確に定義しています。まずは『居心地のよい環境である』という本質的な価値を提供し続ける。その前提があった上で、環境の中で生じるトラブルや要望などの偶発的な出来事に向き合っているんです。
偶発的な出来事への対応は、効果的な施策を設計する以上の厳しさがあります。日々、お客さんに向き合い続けていても、完璧な体験が完成する日はない。どんなに頑張っても、引き継ぎシートやコミュニケーションボードには課題が書かれます。
それでも訪れてくれたお客さんをしっかりと見つめ、向き合い、考え続ける。それが未来に縛られず小杉湯という環境やお客さんのことを大切にするために必要なんです。究極的に難しいことですけどね」
昭和8年から、87年にわたって続いてきた小杉湯。
そんな場所を守り続けていくため、平松氏らは、未来へと急かされるビジネスの常識にとらわれず、淡々と日々を積み重ねている。小杉湯の「心地よさ」の源泉は、そんな彼らの姿勢にあるのだ。
心地よさに惹きつけられた人々は、その環境を共につくる側にもなり得る。小杉湯では実際に、ファンたちが会社を立ち上げ、小杉湯の関連施設を運営している。次回はそんな会社、株式会社銭湯ぐらしの取り組みを紹介していきたい。
執筆/萩原雄太 取材/大矢幸世 編集/木村和博 撮影/須古恵