2020年9月にリリースされた入浴アプリ「Onsen*」。お風呂場にスマホを持ち込み、アプリを起動すると、さまざまな入浴体験を選べ、お風呂から出た後には最適な入眠タイミングを知らせてくれる。
アプリを開発したのは、クライアントの事業やサービスの価値を高めるUXデザインカンパニー、株式会社アジケ。従業員数は30名ほどと少数でありながら、三井住友銀行、NTTドコモ、UCC上島珈琲株式会社など、日本を代表する企業を支援するUXデザインのプロフェッショナル集団だ。
UXデザイン、つまりユーザー体験を基にした問題解決を生業にするアジケが新規事業として開発したOnsen*は、単なるアプリではなく、アプリを一つの道具として、入浴という体験を通して現代人の悩みを解決するものである。
アジケ代表取締役・梅本周作氏、Onsen*のプロジェクトマネージャーである佐藤晃氏を迎え、Onsen*を通じて伝えたいこと、そして入浴体験をデザインすることはどういうことかを聞く。
入浴に別の意味を与える
「Onsen*」は入浴という体験を通して、ストレスから解放され、自分と向き合う上質な時間を創造する手助けをしてくれるアプリだ。
専用の入浴剤も2種類開発しており、浴槽でパッケージをスキャンすることで、さらに入浴が特別な時間になる入浴プログラムがアプリに表示される。
入浴剤はアプリから公式サイトで購入するだけでなく、入浴剤のみAmazonから買うこともでき、そうしたユーザーの声もAmazonのレビュー欄に多くある。アプリを知らなくとも、知らないうちにOnsen*ブランドに触れている可能性がある。そんな売り方も新鮮である。
実際にアプリを開いてまず驚くのは、ユーザーの悩みを解決する入浴方法の多様性だ。メインとなるのは「すっと眠りにつく」「自律神経を整える」「内から発汗する分割浴」「心と身体を解放する」の4つ。そのほかにも、入浴中のマッサージ方法や、入浴時間にちょうどいい短編を朗読してくれる機能もある。
しかも、それぞれの入浴方法に、気の利いた補足が付いており、アプリにガイドされながら気分に任せて選ぶことができる。一例として「おすすめ」から、内から発汗する分割浴を選ぶとする。すると、お湯の溜め方や、こんな身体の状態のときにいい、ひいては詳細な分割浴の仕方まで書いてあるのだ。
これほど入浴体験のレパートリーを揃えるOnsen*だが、そもそもの着想は、梅本氏が睡眠に悩んでいたことだという。
梅本氏「寝付きは良いのに、すぐに目が覚めてしまう状態が4~5年続いていました。理由を考えてみると、SNS疲れをはじめとした“情報疲れ”にあるんじゃないかなと思ったんです。
もっと言うと、“自分の軸がなくなっていく感覚”が、心的なストレスになり、睡眠に悪影響を及ぼしているのではないか。そしてそれは、僕個人の悩みだけじゃなく、現代人特有の悩みじゃないかとも思ったんです」
佐藤氏「私自身としては、常に情報に囲まれる中で、自分だけの時間がないことにぼんやりとした危惧を抱いていました。
それは、仕事やプライベートを問わず、デジタルコンテンツなど、外側にある情報を取捨選択してインプットすることに常に意識が向いてしまい、心の内から湧き上がる“想い”や“考え”にゆっくりと向き合う時間の優先度を下げてしまっているという危惧です。
一方、どこか遠くへ旅行に行ったり、一人でぼーっとする時間をとったりすることで、リフレッシュできることは実感としてあり、自分と向き合う時間を持つことが、毎日を豊かにする上でとても大事な習慣じゃないか、と考えていました」
自分と向き合う時間を持つこと。そのための一つの手段として、自然と入浴という体験そのものを考え直し始めたという。
佐藤氏「好みの入浴剤を入れ、少し照明を落とし、音楽を流しながら丁寧に入浴することを始めました。そうすると、お風呂に入っている間に、自分の体の調子に気付いたり、自分と向き合ってリフレッシュできたんです。
そして、こうした時間の使い方は私だけの話ではなく、コロナ禍で在宅時間が増える時代において、ますます重要性・意味性が加速するのではないかと考えました。このときの気づきが、私にとってOnsen*に関わる上での大きなきっかけになっています」
つまりOnsen*は、単に入浴時間を楽しいものにするものではなく、入浴を“自分と向き合う時間”として提案するアプリ。単なる入浴アプリではなく、アプリを通して入浴体験を設計するブランドなのだ。
実際の「今までなんとなくお風呂に入っていたのですが、入浴レシピにそってお風呂に入りBGMをかけることでお風呂の中で瞑想しているような気持ちになります」というアプリ利用者の声が、その体験を端的に物語っている。
そもそもそのサービスは使われるのか?
Onsen*の開発にはいくつかの信条がある。
一つ目は、「不確実性の高い社会だからこそ、自分たちがやりたいことをやる」こと。
梅本氏「グローバル化にはじまり、DXの推進やパンデミック。10年先を見据えても、何が起こるか誰も分からないですよね。そんな状況で、これから必要とされるのは、不確実性の高い環境で自ら主体的にビジネスを展開し、その試行錯誤の中で得た知見じゃないかと。
そしてせっかくやるのなら、当たり前かもしれないけど、自分たちも1ユーザーとして、価値を感じられるものにしたいね、ということは話していました」
二つ目は、「小さい単位で素早く始める」こと。
2018年末に新規事業の立ち上げを決め、既存のUXデザイン事業部に横並びになる事業組織として、梅本氏、佐藤氏を中心とした計5名で新規事業部が設立。まずは230にもおよぶ事業アイデアをスプレッドシートに書き溜めたという。
佐藤氏「その後は、ひたすら絞る作業でした。『自分たちの技術やリソースで実現できそうか』『プロトタイプが想像できるか』『コンセプトシートだけでユーザーがサービスのイメージをできそうか』という3つの基準を設けました」
三つ目は、「ユーザーが使ってくれる」ことだ。
梅本氏「具体的に言うと、アプリを使う前って、そもそもコンセプトとしてイケてるかどうかで、ユーザーは判断するじゃないですか。一方、使い続けるかは別の話。つまり使用感や、飽きずに使えるか、という点。まず大事にしていたのは、私たちが考えたアイデアのうち、ユーザーがどれをイケてると思って、実際に使おうと思うのか、というところでした」
「自分たちがやりたいこと」「小さく素早く始める」「ユーザーが使ってくれる」。そんな3つの基準を満たした、Onsen*を新規事業プロジェクトとして事業化。前述の通り、梅本氏、佐藤氏自身が、常日頃から感じていた悩みを解決するようなものであったため、思い入れも強いそうだ。そして、コンセプトをユーザーにヒアリングした際にも「新しい」「使ってみたい」という反応が多かったという。
なぜOnsen*が好意的に受け止められたのか? それはまず、ユーザーの習慣に取り入れやすいこと。体験のゴールは“自分と向き合う時間”の大切さに気づき、習慣化してもらうことだが、瞑想やマインドフルネスは意外とハードルが高い。反面、元々日本人の習慣としてある入浴であれば、普段の生活に取り入れやすい。
また一方で、ビジネスとしての新しい視点においても独自の価値を打ち出すことができているという。
梅本氏「寝具メーカーのみならず、GoogleやAppleが参入するなど、今や睡眠の市場は巨大。でも、“睡眠の入口と出口”って視点で見渡してみると、“入浴と睡眠”の体験を定義できている事業はないんですね。隙間産業的な考え方ですが、日本ならではの習慣と、自分たちの悩み、そしてビジネス的な新しさが無理なく共存させられると思ったんです」
余計なことを考えないUI
リリースに向けた準備の前に、最も時間をかけたのが開発体制の検討と構築。内製か、外注か、である。
梅本氏「色々な企業さんをデザイナーとしてお手伝いしていて、その方々の悩みの根本が、“内製化したい”ということにあるのは感じていました。最近の事業トレンドから見て、不確実性が高いから、早く物事を試したいことが背景にあると思います」
そのような背景から、私たちも内製化していくことに決めたものの、その体制づくりに時間がかかり、リリース予定は後ろ倒しに。ただ結果的にはサービスの改善スピードが上がり、大成功だったという。また、企画段階から細かなUIの改善まで、チームのメンバー全員が同じ熱量でOnsen*に向き合えているそうだ。
体制が整ったら、アプリの構築フェーズ。とはいえ、UXデザイン会社らしく、UIの考え方も体験を基に考え抜かれている。
梅本氏「入浴体験そのものをより良くするのは前提ですが、最適な入眠のタイミングを通知することが最も大事なんです。体験でいうと、入眠がゴールなので。だからそこを終点として、最初に伝えるべきことから、入眠の通知が来るところまでのユーザーの流れを時間で区切った上で、分かりやすいUIを考えていきました」
佐藤氏「ヘルスケアの領域で馴染むようなアプリになっていきたいなと思っています。例えば、お風呂で使うような椅子って説明書を読んで使うようなものじゃないですよね。直感的というか。“自分と向き合うため”の時間として、お風呂を定義しているので、ユーザーに余計なことを考えてもらわないという意味でも、直感的でありたいんです」
お湯と肌が触れ合うところまで考える
アプリのみならず、入浴剤までつくってしまうのもアジケらしい。入浴=“自分と向き合う時間”をデザインする上で、入浴そのものもリラックスできる大切な時間にして欲しいという想いから、入浴剤をつくることに決めたという。
梅本氏「湯船に浸かって自分と向き合う。気分をリフレッシュしたりリセットしたりする。そういうシチュエーションを想像したときに、実際に身体に触れるお湯からもアプローチした方が、体験自体が向上し、より自分と向き合えるんじゃないか。そして”香り”はモードを切り替える大事な要素の一つなんじゃないか、という話をして入浴剤の開発に行き着いたんですね」
佐藤氏「それからメンバー全員で20くらいの入浴剤を試してみたんです。それで、今一緒に開発をさせてもらっている『ヤングビーナス』の入浴剤を使ったときに、満場一致でこれだ! って。香りは追って検討するとして、湯船に入ると体温がグーっと上がる感じが、入浴体験そのものを向上させる強度があると感じたんです。
入浴剤業界の中でヤングビーナスというのは老舗で、調べてみるとその製法は別府温泉古来のもの。パッケージはアプリと同様、洗練されたシンプルなデザインだけど、製法はクラシック、という対比も面白いなと思いました」
その後、香りの開発を進めるにあたり大事にしたのは「香りの主張が強すぎない」ということ。そう考えると、日本人に馴染んでいるかどうかが基準となり、例えばラベンダーだと強すぎる。無香でもいいけど、ちょっと寂しい。そんな議論を経て、現在の「ヒノキ」と「ヒバ」の2種類に落ち着いたという。
ある意味、オプション的に考えてもいいような入浴剤。それでもここまでこだわるからこそ、実際に使ったときに体験として強くなる。それはアプリのみならず、WebサイトやTwitter、noteなどの各タッチポイントで、佐藤氏をはじめプロジェクトメンバーが丁寧に紡いだ文章を読んでも思うことだ。例えばWebサイトの入浴剤のページ。他のページと比べてもかなりテキスト量が多いのだが、「温泉発、全身トリートメントとしての“整え”体験。」という見出しから始まる、あくまでもユーザーが主役の語り口ゆえ、入浴剤の効果や開発の背景を最後まで楽しく、読み切ることができる。
使い続けてもらうために
「ユーザーの声を中心に、“自分と向き合う時間”の習慣化を浸透させていきたい」と声を揃える二人。Onsen*にかける想いが強いからこそ現状に慢心せず、少しでもユーザーとのギャップを埋めようとする姿勢は、職人的でもある。
梅本氏「『睡眠に悩んでいる人』『お風呂が好きな人』はかなりの数がいるんですが、じゃあどういうコミュニケーションが最適か? どうしたら受け入れてもらえるか? という点については、いまだに答えがありません」
年齢や性別、家族形態などのこれまでのデモグラフィックではなく、“ユーザーの興味”を軸とし、細かなコミュニケーションを試みることで、ユーザー像や発信する情報の内容をアップデートしているという。
そして同時に、Amazonやアプリのレビューなど、ユーザーからのフィードバックをもとに、機能そのものの改善もし続ける。
佐藤氏「当初想定していたのは、先に挙げたように情報疲れを感じているユーザーからの声でした。ただ蓋を開けてみると、美容などの文脈でも要望を多くいただきます。そういった方々にも使っていただいている事実を踏まえて、より多様な悩みやシーンに応えられるアプリに進化していければいいなと思っています」
現在でも、入浴中に最適なマッサージ方法や、BGM、小説の朗読などが入浴と同時に体験できるようアプリに実装。今後は、より幅広い入浴レシピや、入浴中に眺めて楽しめる背景、毎日の入浴を記録できるログ機能の追加を考えているそう。
最後に、梅本氏のこんな言葉が印象的であった。
梅本氏「佐藤をはじめとして、こだわる人、作りたい人が多いので、みんな良いアイデアを出してきてくれるんですよ。ただ、機能やコンテンツを盛り込みすぎると、入浴=”自分と向き合う時間”という軸からズレる可能性もあるので、何を実装するのかは常に議論しています。マネジメント側からすると、いい意味でなかなか悩ましいアプリでありサービスなんですよ(笑)」
数えきれないアプリやウェブサービスが流通する時代に、企業側がマーケティングの観点のみでサービスを開発することも多いだろう。しかし、つくり手が一人のユーザーとして、自分と向き合い、他者ではなく自分に正直なメンバーが日々開発に取り組むのがOnsen*。その結果として、人にとって大事なメンタルヘルスや主体的な時間の使い方を、習慣の中で考え直す体験設計となった。
一にも二にもユーザー。当たり前だが、そのユーザーの中につくり手が含まれていることこそが、この時代のサービス開発において重要な観点であり、最もユーザーがシビアに感じとるブランド価値なのだと思った。
執筆/koke1 編集/サカヨリトモヒコ(BAKERU)