身の回りを探してみると、「KAI」と刻まれた日用品が目につくのではないだろうか。創業から114年の老舗、貝印株式会社のプロダクトである。たとえば、カミソリ。使い捨てカミソリの国内シェアはNo.1だ。そのほか、爪切り、毛抜、眉毛用のハサミなどのビューティーケア用品。ピーラー、包丁、ボウル、ターナーなどのキッチン用品なども生産している。そんな「グローバル刃物メーカー」として私たちの暮らしを身近に支える商品を提供する同社から、2020年4月、世界初の脱プラスチックを実現した紙カミソリ®が登場した。
デザインや設計のユニークさがもたらす付加価値の柔軟さに始まり、環境負荷を抑えるための「脱プラスチック」、多様性を前提に必要とされる「ジェンダーフリー」といったコンセプト。時代が要する価値観に取り組むこの商品には多くの注目が集まり、自社オンラインショップで行ったテスト販売では3日で完売した。さらに、ファッション誌「VOGUE JAPAN」によるプロジェクト「VOGUE CHANGE」や著名人とのコラボレーションも実現した。2022年3月22日からは全国のローソンで販売が開始された。時流に乗ったプロダクトとして、今後いかに浸透していくのだろうか。
紙カミソリ®の開発のストーリーから見える、貝印が提示する価値観や企業カルチャーについて、マーケティング本部 広報宣伝部 次長 齊藤淳一氏に話を伺った。
貝印 マーケティング本部 広報宣伝部 次長 齊藤淳一氏
法政大学経済学部卒業後、20世紀FOX映画(現20世紀スタジオ)にてインターネットマーケティングを担当。その後、スウェーデン発のクリエイティブエージェンシー、グレートワークス上海支社にてCOOなどを経て現職。現在は、グローバル刃物メーカー貝印のマーケティング本部広報宣伝部にて次長を務める。
一人ひとりの声に向き合う「野鍛冶の精神」
イギリスのシェフィールド、ドイツのゾーリンゲンと並んで、世界三大刃物産地とされる岐阜県関市。いまでも90以上の刃物メーカーが刃物製造をこの地で、貝印株式会社は初代・遠藤斉治朗により1908年に創業された。以来、日本を代表する刃物メーカーとして数多くの製品をつくり続けているなかで、ものづくりの理念となっているのが「野鍛冶(のかじ)の精神」。114年目のプロダクトである「紙カミソリ」もまた、この理念を体現する企画だったという。
貝印のものづくりの姿勢を表すこのキーコンセプトについて、紙カミソリの開発プロジェクトに初期段階から参加する齊藤淳一氏は次のように説明する。
齊藤氏「明治9年(1876年)に交付された廃刀令により刀を作れなくなった当時の刀匠たちが、一般向けの鍬(くわ)や包丁などをプロの技を生かして作るようになりました。お客様の要望を聞きながら、使う本人のくせや手の形に合わせて道具を作る鍛冶屋たちの考え方から生まれたのが『野鍛治の精神』。いわば、オーダーメイドのようなものです。貝印もこの考え方を大切にして、商品の企画・開発に取り組んでいます」
貝印の製品は、冒頭に挙げた一般家庭向けのビューティーケア用品やキッチン用品に限らない。医療用メスや工業用の特殊刃物、散髪ハサミなど、プロ向けにも幅広く展開されている。現在、取り扱っている製品は1万点以上。お客から寄せられた要望の一つひとつに寄り添った結果だという。
齊藤氏「たとえば医療用のメスは、お医者さまから『今あるメスよりもさらに良いものを作れないものか』という声をいただいたのが、開発を始めるきっかけになりました。巻爪専用の爪切りも作っていますが、こちらも、巻爪の治療を専門にされている十川(そがわ)秀夫先生からご連絡いただいて、完成させたものです」
独自の凸刃や直線刃がポイントの、専門医と共同開発した巻き爪ケアシリーズ。
巻き爪用凸刃ツメキリ(左)/巻き爪用直線刃ツメキリ(右)
技術力に信頼を寄せられ、専門用具の要望にも応える貝印。様々なジャンルのお客からの声が商品化へと繋がっていくことで、幅広い分野を手がけるに至っている。
齊藤氏「ひとりのお客様の声の背景には他のお客様の要望もあるはずだという考え方が前提にあります。推定されるお客の人数の大小に関らず、リクエストがあればできる限り要望に応えられるよう取り組んでいます。その背景には、我々が利益の追求よりも、製品を提供する先に生まれる価値を大切にしているという点があります。
これは現会長が祖父の代から受け継ぐ、禅に学んだ経営の姿勢から来ています。会長は禅の学びを通し『利益はエクスクリータ(排泄物)』という言葉を使います。企業の最終目標は利益となりがちですが、そうではなくどれだけ企業がお客様に幸せを感じていただいたか、社員がどれだけ幸せに働けたか、会社の製品を使ってどれだけ多くの人を満足させられたか、それこそが価値。その価値を追求する姿勢が代々の社長をはじめ、社員にも浸透しているのではないでしょうか」
お客の一人ひとりと向き合う「野鍛治の精神」と、代々引き継がれる企業精神によって、様々な個別のシーンが生む要望に寄り添った商品づくりが日々進められている。そんな土壌をもとに、新しい時代に向けて貝印が生み出したのが、紙カミソリだ。
“剃り心地”という体験を届けたい
紙カミソリ開発のきっかけとなったのは、貝印が創業110周年の節目を迎えた2018年に、社内向けに発表された中期経営計画、通称「ブルーオーシャンウェイブ」。そのなかには「貝印」のいわゆる“老舗企業”としての企業イメージをくつがえす、時代に合わせた新しい価値を創造する目標もあったという。とくに注力されたのが、カミソリ分野。カミソリは今や一般家庭にも広く普及し、他社製品との差別化が難しい製品となっている。成熟した市場としてなかなか革新が起きづらい状況に一石を投じるため、社内の有志が集まった。
齊藤氏「研究、商品開発やデザインなどの部署を超えたメンバーが集まり、遠藤浩彰社長(当時は副社長)をプロジェクトオーナーに取り組みはじめました。プロジェクトチームの名称は、中期計画の一部を“剃る”にもじって『ブルーオーシャン“シェイブ”』です(笑)。
『新鮮な剃り味をお客様に提供したい』という想いからスタートし、ビールの最初の一口目や、使用一日目のコンタクトレンズのような、最初の「気持ちいい」剃り心地の提供をカミソリで目指すことにしました。そんなコンセプトから、一回だけの使用を前提とした“1Dayカミソリ”が提案されました」
ただ、このアイデアを実現させると、生産から廃棄されるまでのサイクルが短いために環境負荷が高くなる。その解決策として選ばれた素材が、紙だった。水場で使うカミソリには、耐水性と耐久性が要求される。使用素材と加工方法を検討し、最初のプロトタイプには、牛乳パックに似た耐水性のある素材が選ばれた。また、同じく紙を素材とするヨーグルトのスプーンを参考に、ある程度の力がかかっても耐えられる形が検討されたという。制作したプロトタイプの数は、100種類ほどにものぼる。プロジェクトメンバーは根気強く議論を重ね、開発を進めていった。
こうして2年間かけ完成した紙カミソリは、平面状態から組み立てて完成させるT字型。ステンレス刃の部品もこのためにオリジナルのタイプが考案された。3枚の独立したそれぞれの刃がサスペンションで肌の凹凸に密着して、肌を痛めない快適なシェービングを可能にする設計になっている。筆者も実際に使ってみたが、上質な替刃の剃刀と変わらない程に気持ちいい剃り味。耐久面においても、水に濡れても弱ることなく安定して剃れるから、安心して使うことができた。
しかし、紙カミソリが提供する価値は、そんな使い心地には留まらない。「紙」というありそうでなかった素材が、プロダクトのより幅広い可能性を提示したのだ。
新しいカミソリから広がる可能性
「紙素材」が実現したのは、これまでのカミソリにはなかった柔軟なデザイン性だ。
印刷できることで、色やグラフィックなどでの表現の幅が広がり、ファッション誌「VOGUE JAPAN」によるプロジェクト「VOGUE CHANGE」や、女優の夏木マリ氏、ファッションモデルの冨永愛氏とのコラボレーションが実現した。紙を採用した当初には思いもよらなかったそうだが、メッセージやグラフィックも印刷できることから、今後のコラボレーションの広がりや、一種のメディアとしてお客へとメッセージを届ける役割も期待できるという付加価値が生まれた。
それによって、これまでのカミソリにおいて実現の難しかった「ジェンダーニュートラル」を提示することができた。これは、齊藤氏の発案によるものだ。プロジェクトチームに齊藤氏が参加したのは、初期のコンセプトモデルが社内で発表されたとき。カミソリ=プラスチックという常識を覆すコンセプトに驚き、参加を決めたという。
齊藤氏「男性用のカミソリはメタリックでブルー系、女性用はピンクなどの暖色系、といった固定概念を打破できる可能性を感じて参加したんです。私自身が、男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、という考えに生きづらさを抱えている方の存在を感じていたこともあり、今の世の中の時流に合った挑戦的なプロジェクトだからこそ、男性用・女性用という概念から外れ、ジェンダーの垣根を取り払った選択肢を検討してもよいのではないかと話しました」
紙カミソリは「オーシャンブルー」「ボタニカルレッド」「ヒスイグリーン」「サニーイエロー」「サンドベージュ」の5色展開。自分で組み立てるという新しさも相まって、遊び心豊かにあらゆる性別の方をユーザーとして意識したデザイン面の工夫にも注目が集まった。
「お客様の声を聞く」ところから
こうした新しい試みの積み重なったカミソリだからこそ、「まずはお客様に使ってみていただいて声を聞いてみたい」という考えで自社初となるテスト販売も実施した。自社のオンラインショップで販売され、開始から3日で完売したほどの反響だった。使用した感想などを聞き取ると、実際の体験からお客自身が発見したおもしろさもあったようだ。
齊藤氏「厚さ約3mm・重さ4g、といった持ち運びのしやすさから、旅行時や出先での身だしなみを整えるのに便利だという声や、ホテルや宿泊施設、銭湯に置いてほしい、といったご要望がありました。
また、お客様が組み立てて使うことに関しては、『楽しい』という感想や、海外メディアからの『日本の折り紙文化が生んだ製品だ』という評価をいただきました。アメリカのメディアによる紙カミソリを組み立てる様子を紹介したTikTok動画は、1600万回も再生されたようです。折って組み立てる手間が、お客様の負担にならないか懸念していましたが、ポジティブなお声をいただいてほっとしています」
今後は、紙の本体部分とステンレスの刃を分別して捨てられるようにしたいという。「刃も紙かと思っていた」という声もあり、「ゆくゆくは紙で刃をつくることにもチャレンジしたいです。何年後になるかはわかりませんが(笑)」と、齊藤氏は朗らかに答える。
老舗メーカーが見据える“次の100年”
時代に伴い、お客の価値観やニーズも変化していく。今はあたりまえのことが、数ヶ月、数年先には非常識になっている可能性もある。常に新しい情報を集め、ものづくりに生かすため、貝印はお客や社会の声に普段から耳を傾けている。
その好例が、同社が行う、剃毛(ていもう)・脱毛に関する意識調査に集められた声から生まれたもの。2020年8月に打ち出し注目を集めた「#剃るに自由を」キャンペーンでは、刃物メーカーでありながら「剃らない」ことも肯定するメッセージを載せて発信、世間の“あたりまえ”に息苦しさを感じていた人々から共感の声が寄せられた。子ども向けに剃毛の知識や方法をまとめた「FIRST SHAVE BOOK」は、意外となかなか教わる機会の少ない「正しい」剃り方を知りたかった小中学生から支持された。
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「FIRST SHAVE BOOK」
さらに2022年4月には、新しい価値観を持つ若者に注目したPR企画「Z世代共創プロジェクト」を発足し、紙カミソリの認知度を上げるためのアイデアを若者に募っている。「若い世代の方から宣伝や商品広報のアイデアをいただいて、とても刺激を受けています」と齊藤氏は言う。
加えて、社内でも意見を吸い上げるシステムとして活かされているのが「週報」だ。全社員が毎週一回、身の回りで挙がる未来のお客の声や気づきをイントラネット上で報告する。SNSのようにフラットな場で意見交換できるのがポイントで、身近な場所から生まれる気づきは全社員で積極的に共有している。優秀週報に選ばれたアイデアには商品化検討の号令が出されることもあるという。
商品開発から広報まで、時代に沿ったアイディアや価値観を取り込んでいく努力が随所にみられるように、昔から受け継がれてきた「野鍛冶の精神」の考え方は、新しい時代を切り開く鍵にもなっているようだ。
齊藤氏「これまでもお客様のご要望から弊社の多様な製品が生まれ、多くの方に弊社の製品を使っていただいてきました。ですが、このほかにも私たちが把握できず、応えられていないお客様の要望はまだまだたくさんあると考えています。今後も、多様な価値観や考えに寄り添う製品づくりをしていきたいと考えています」
紙カミソリのテスト販売が行われた直後の2021年6月に、「プラスチックに係る資源循環の促進等に関する法律案」(通称:プラスチック新法案)が可決された。結果的に時代の一歩先を行く取り組みとなったが、齊藤氏は「本当に楽しんで作っていたのが一番でした!」と振り返る。
最初は5名からスタートした「ブルーオーシャンシェイブ」は、自然と仲間が集まっていくことで最終的には12人になったという。所属する部署や肩書を超え意見を交わしながら、チーム内の知的財産部のメンバーからは特許登録の提案、EC営業部は発売方法を模索……とそれぞれの得意とする役割をこなしつつ、研鑽していった。
紙カミソリは、メンバー個々のアイデアを活かすことで、環境配慮やジェンダーといったソーシャルイシューに対する回答の1つを提示し、「組み立てる」という体験の楽しさを兼ね備えた従来のイメージにとらわれないプロダクトとなった。
現在、貝印はサステナビリティ推進部を立ち上げ、資材調達から製造、輸送、使用後の廃棄まで、製品のライフサイクルに生じる環境負荷の軽減を中心に、さまざまな課題の解決にも重要なテーマとして掲げている。また、2030年の達成を目標とするSDGsや高齢者社会といった、社会で必要とされているユニバーサルデザインなどにも着目して取り組んでいくという。身の回りにある「KAI」プロダクトは、次の100年でどんな進化を遂げるのだろうか。想像するだけでもワクワクする。
執筆/松本麻美 撮影/タケシタトモヒロ 編集/BAKERU