今、生成系AIの台頭に世界が揺れている。
AI関連テクノロジーの潮目が表立って変わったのは、2022年に入ってからだった。まずは「Stable Diffusion」「Midjourney」「DALL·E 2」などの画像生成系AIが一般公開され、打ち込まれたテキストの指示を元にイラストや写真とも見紛うような写実的な画像を、1分もかからずに作り上げてしまうそれらは、人々のクリエイティビティを刺激し、またたく間に全世界に広がった。
そして、その後すぐにOpenAIのリリースした対話型AI「ChatGPT」が、新たな“AIの時代”の到来を決定的に印象付けた。人々とコミュニケーションを取りながら、相手のニーズに応じたドキュメントや情報を提供する能力を持つそれに、AIの業務活用や社会実装に伴う“パラダイムシフト”の兆しを感じ取った人々は少なくないだろう。
AIが仕事を、AIが社会を、AIが未来を――AIを主語にした言説がSNSを席巻しているこのタイミングで、むしろ「“人間の時代”の到来」を唱える人物がいた。直近で代表作『AIの遺電子』のアニメ化が決まった、漫画家・山田胡瓜氏だ。
人間とAIが共存する近未来に生まれ得る問いをリアルに描き続けてきた同氏は、これからの社会の変化に、どのような思いを馳せているのだろうか。AIによって、私たち人間の生き方はどう変化し得るのだろうか。山田氏が作品に込めた思い、想像する近未来のあり方について話を伺った。
いつのまにか『AIの遺電子』の世界に足を踏み入れた私たち
みんな急にAIの遺電子みたいな価値観に染まり始めてるな。
— 山田胡瓜・AIの遺電子アニメ化 (@kyuukanba) March 16, 2023
山田氏のTwitterより
「みんな急にAIの遺電子みたいな価値観に染まり始めてるな」――2023年3月16日、タイムラインがChatGPTの話題で賑わう中、山田氏はこんなツイートをしていた。
“AIの遺電子みたいな価値観”とは、一体どのような意味合いなのか。発言の意図を尋ねると「人間がAIに負けるかもしれない……そんな不安を皆、感じ始めたんじゃないでしょうか」と、山田氏は語り始めた。
山田氏「『AIの遺電子』は、AIが人間の知能を超えてしまった後の社会を描いた作品です。この作品には、『AIが人間を超えてしまっている』という前提があるんです。あらゆる面で、AIが人間より優れているという設定なんですよ。そのなかで生きている人間を描いています。なので、少しディストピアというか、人間が優れているんだという価値観の人にとっては少し不愉快な作品だと思っています。そう感じられるように書いているつもりなんです」
ChatGPTの登場によって、「あれ、人間ってAIに負けるのでは?」「人間って思っていたほど優秀じゃない?」といったことを多くの人が言い出したと、山田氏は語る。作中で表現していた世界に、現実が徐々に近づいているこの状況を目の当たりにして、山田氏は今の状況に何を思うのだろうか。
山田氏 「AIは、これまでも着実に進歩してきました。ずっとAIの技術進歩を追いかけている人からすると、ChatGPTのようなサービスが出るより前にも、新しい技術に驚いてきたわけです。ChatGPTがなぜこれだけ話題になるかというと、『コミュニケーション』という人間が最も人間らしいと考えられている部分に対して、驚くような流ちょうさで再現しているから。
曖昧なことを入力しても、『こいつ、わかってるな』と感じられる回答が返ってくる。そういう体験をした人は、『あれ? もうAIって来てるのでは?』と考えるようになっている。実際にそうなのか、まだ錯覚なのか、というのは意見が分かれますが、そういう体験が起きる時代に突入してしまったのだと思います」
『AIの遺電子』の世界は、人間の知能を遥かに凌駕した「超AI」が人間社会の安寧をコントロールしている。そこでは道具として扱われるロボット「産業AI」が多くの仕事を肩代わりしていて、人間と同じレベルの知性や感情のあるロボット「ヒューマノイド」は人権を獲得している。この世界観を描いてきた山田氏にとって、今のAIの技術状況は驚くようなものではないようだ。
山田氏「未来学者のレイ・カーツワイルは、2045年に人間の脳と同レベルのAIが誕生するシンギュラリティ(技術的特異点)が来ると言及していました。こうした言及に対してはコンサバに見ておいたほうがいいなと思っているんです。それで『AIの遺電子』では、未来をコンサバに予想して描いてみました。
ディープラーニングなどの当時のAIを自分なりに取材して、『少し未来には、これくらいのAIをは実現できているのでは』と想像して描いたんです。それから少し時間が経過して、現状を見ていると、やはりそういうAIができたな、と。いろんな話題に流ちょうに返答するものの、自分に何ができて、何ができないのかなどは、わかっていないAIですね」
大きな変化の渦中にいるワクワク感がある
生成AIの登場は、想像の範囲内だという山田氏。想像していた世界と、現実の世界とで、なにか異なる点はあったのだろうか。
山田氏「思い描いたような社会の実現は、かなり早まっていると思います。ただ、僕はおもしろい漫画を描くのが仕事で、未来予想が仕事ではありません。確信犯的に『こうはならないよな』というポイントも含めて描くようにしています。
例えば、作中では暗号と人工知能の権威である南雲博士が、一人で超AIを開発します。この点は現実との乖離はありますよね。実際には、様々な人が開発を進めて、改善を重ねていったら、いつのまにかAIが高性能になっている。
現実に起こりうるシナリオにするのであれば、それこそサム・アルトマンのような人物が率いる、OpenAIのような団体が、人を雇い、クローズドで改善を重ねていき、ある時オープンにするというほうがリアリティがありますね」
作品との違いはあるにせよ、思い描いていた状況が生まれているとも言える。山田氏は、いまの社会の状況をどのように捉えているのだろうか。
山田氏「アメリカの大統領がAIに対してコメントするなど、世界規模で大騒ぎになっている。ちょっとワクワクしちゃいますね(笑)。ワクワクする気持ちと、怖さが両方ある、そんな感じです」
そう山田氏は楽しそうに語る。実際にAIが社会に浸透してきたら、私たちは怖さに飲み込まれずにいられるのかは疑問だ。作中にも、人間のように振る舞うAIに怯え、苛立つ人の存在も描かれている。
山田氏のようにワクワクする気持ちで、AIがもたらす変化に向き合えればいいだろう。だが、多くの人にとっては困難だ。山田氏はなぜ今の変化をポジティブに捉えられているのか。
「どう生きるのが幸せなのか?」をAIに問われている
みんな「AI」の時代が来ると思ってる人が多いと思うけど、僕は逆に「人間」の時代の予感をヒシヒシと感じている。人間が心置きなく人間を楽しもうとする時代が来るのかもしれないという予感。
— 山田胡瓜・AIの遺電子アニメ化 (@kyuukanba) March 27, 2023
山田氏がTwitterに投稿していたのが、こんなツイートだ。山田氏の考える「人間の時代」というものの到来を感じられれば、変化を楽しむ気持ちを持てるかもしれない。このツイートの背景にはどのような考えがあったのだろうか。
山田氏「ちょっと長くなりますが、背景からお話しますね。AIの世界には『アライメント』という概念があります。これは、AIを価値観をどうやって人間の持つものに寄せていくか、その制御を意味する言葉です。
ここには、『AIが人間を害すような存在にならないように、一般的な倫理から逸脱した発想をしないように』といった視点が含まれています。ただ個人的には、今の社会を見ていると『逆に人間がAI側にアライメントしているのでは?』といったシーンも多いなと感じています。
例えば、ChatGPTが登場して大騒ぎになったとき、『AIが世の中を変えてしまうから、適応しないと生き延びられないよ』という感じのコメントが数多く出てきますよね。本当は、『AIがあれば、こういう未来を目指せるよね』といったことをもっと話し合わないといけないはずなんです。
AIを作っているのは人間なので、どういう未来を目指したいのかという方向性がなければ、アラインメントのしようがない。AIをアラインメントするためにも、自分たちの目指すべき方向性や価値観を、自分たちに問いかけないといけない時代なんだと思っています」
前提として、人間である私たちがAI側に寄っていくのではなく、自分たち自身の目的や意思を問いかけていく必要があるという。AI側に委ねてしまうことで人間が楽になる、という可能性はないのだろうか。
山田氏「『AI側にアラインメントしている』というのに近い状況を挙げてみましょうか。例えば、Twitterのアルゴリズムを完全に理解して、そのアルゴリズムに乗っかって、常にバズるツイートを生み出しているけれど、どこか空虚さがずっと心の内にある、みたいな状況だと思います。それでいい、という人もいるかもしれませんが、どこかで陰はあるように思いますよね。
そういうアルゴリズムに自分を合わせていくようなことはせずに、インターネットに触れず、街で仕事をして、家に帰って温かいお風呂に入り、ご飯が美味しい、という日常が幸せという可能性もあると思っているんですよね。もちろん、こうした幸せを、AIが壊す可能性もあるし、アルゴリズムに自分を合わせる空虚さをAIが埋めてくれる可能性もあります。それはどうなるかわかりません。
わからないという前提で、僕自身はこう思うんです。自分の選択に後悔しないような、自分なりの価値観、『こう生きたい』というような気持ち。それを持つことが、すごく大事なののではないかと。『AIがあるから、自分はこうする』という理屈だけだと、僕はちょっとさみしい気がしていて。自分はこう生きたいから、そのためにAIを使うという順番。AIに、僕らは『あなたはどう生きたいの?』と問われている気がしているんです」
AIに適応するのではなく、自分がどう生きたいのかを考える。仮に、多くの人がそれを実行できたとき、眼前に広がる景色はどのようなものになるのだろう。
山田氏「例えば、商業漫画は売れないと収入にならないわけですよね。だから、『自分がやりたい』だけではなく、『売れるかどうか』という視点が必要になります。AIがめちゃくちゃおもしろい漫画をワンクリックで100個くらい制作するような世界になってくると、そこで戦うのとは違う価値観が生まれると思うんです。
その状況になったら僕は『これを生み出したい、描きたい』という衝動に正直に活動すると思います。絵を描きたいから描く、子どものお絵描きに別に理由なんかないように。ある意味、資本主義的な枠組みから解放されて自分の衝動に忠実な表現活動のようなことができるのではと考えています。そんな社会では、商業作家はいなくなるかもしれませんが、コミケは残っているのでは、と想像しますね」
一人ひとりが仕事や経済から切り離した純粋な目標や衝動に従って活動できるようになる。そうなると、現在社会の課題も解決されるかもしれない、と山田氏は自身の希望的観測を語る。
山田氏「現代は過剰な競争や資本主義の中で様々な喜びが失われているとも思います。商店街には、チェーン店とは違う、その土地ならではのユニークなお店が存在しますよね。そういったお店が集まっている街は楽しい。ただ、資本主義の力学の中で、そういった店舗が消えてしまうことは珍しくありません。
AIが浸透した社会では、街を楽しくするくらいしかやれることはないのでは?とも思っていて。例えば、お祭りや同人イベントを開催するなどですね。そうしたら、現実世界の面白さが高まるかもしれない。僕はそういった希望的観測をしていて、それらの考をひっくるめて、『人間の時代が来るのでは』とツイートしたわけです」
人間にやれることは「人間らしい」ことくらいになる
AIが浸透した社会では、人間がやらなくてはいけないことは減っていく。仮に自分より優れた仕事ができる存在がいたとしても、人間は自分がやりたいことを続けるのではないだろうか。
作中に、後継者のいない鍛冶師にフォーカスする話がある。それまでの人生すべてをかけて培ってきた技術を、産業ロボットにものの1週間でコピーされ、上回られてしまう。けれども鍛冶師はそこで絶望せず、むしろ生気を取り戻すのだ。
こうした場面を描いているところにも、山田氏の人間の可能性に対する姿勢が現れているようにも思う。描いていた世界に現実が追いつこうとしている今、山田氏は人間の可能性をどのように捉えているのか。
山田氏「実際、AIに仕事が奪われる可能性はありますが、その先にもっとポジティブな未来が待っている可能性だってありますよね。
例えば、AIと棋士の関係。AIはもはや人間以上に将棋が強いわけですが、藤井聡太さんの将棋には多くの人が熱狂してますよね。羽生善治さんも、AI時代に対応した将棋を体得してさらに強くなって、藤井聡太 vs. 羽生善治という対局が生まれるのも面白い。
僕は、ここにも人間の時代を感じます。どこか、『人間ってみんな一緒だ』という気持ちの中で活動している。どういうことかというと、車が時速100キロ出していたって、車は人間とは全く別の存在だと認識してますよね。だから、車のように速く走れるように自分も頑張ろう、と思うことは難しい。
でも、ウサイン・ボルトは、ちょっと違いますよね。雲の上の人かもしれないけど、同じ人間だと思える。同じ存在かもと思える人間同士で切磋琢磨する気持ちというのは、AIが発達して浸透しても簡単にはなくならないのではと。
先程の経済的な価値観でいうと、ウサイン・ボルトがどれだけ足が速くても、車のほうが早く目的地につくのだから大して価値ないじゃん、となってしまいます。棋士とAIの関係を見ていると、AIが浸透することで、人間がこうした価値観から解放されていく可能性があると思うんです」
先程の作中のシーンも、鍛冶師は一度は自分とAIの仕事を比較してしまって葛藤するが、人間とAIを比較する対象ではないんだと受け入れてから、前向きに自分と向き合えるようになった場面とも捉えられる。
山田氏「ある時期までは、人間が、自分が脅かされることへの恐怖があるかもしれません。いざ、大きく状況が変化してしまうと、むしろ華やぐのではないかと思います。これまでの縛りや固定観念から開放されて、人間って楽しいなという気分になったら、最高ですよね」
作品を通じて、ずっと心に残るような問いかけをしたかった
ここまで人間の可能性について、山田氏の考えを伺ってきた。だが、同氏も答えを持っているわけではない。悩みながら、考えながら、作品を描いてきたという。
山田氏「これだけ人間らしさや、人間の時代と言っていますが、そこに対する疑問も同時にずっと抱えているのかもしれません。矛盾しているのかもしれませんが、AIに適応してしまおうとするのも一つの人間らしさなわけですよね。人間らしさから外れようとするような動きも、一つの人間らしさというか。人間らしさが固定観念のようになってしまっていて、そこから抜け出せずに、別の可能性を探れなくなってしまっているのではないか、という疑問もあるんです。
その疑問に対して、作品を描いているうちに答えは出せなかった。両方、人間らしさだし、生命が持っている動きだと言える。生命は、望むと望まざるにかかわらず、変化していくわけですよね。その変化こそが命の輝きのような気もする。一方で、自分の恒常性というか、自分を変化させないという動きもある。その相反する面を持っていて、どっちも否定できない。
結局、僕は『AIの遺電子 RED QUEEN』の最終巻で、主人公が変化しない側と変化する側に分かれてしまうという結論を描きました。結局、どっちがいいのかというのは決められなかったんですよね」
「決められなかった」と語る山田氏。だが、その表情に陰りは見えなかった。自分が好きだった作品たちのように、読者に問いを残すような作品を描きたいと思ってきたからだ。
山田氏「僕自身、問いが残る漫画が好きで、自分でもそれにチャレンジしたみたんです。例えば『ブラックジャック』。あの作品はエンターテインメントとしても本当にすばらしいのですが、読み終わった後に何か考えたくなる。
『火の鳥』もそうですね。自分の中に問いが残るというのが、手塚治虫さんの作品の好きなところ。そこまでは及ばないかもしれないけど、自分でもそういう問いかけをやってみたいという気持ちもありました。
他にも、宮崎駿さんの作品が好きで、『風の谷のナウシカ』の漫画にはかなり影響を受けています。あれも大きな文明論のような作品で、今でも通用する様々な視点を教えてくれました。ナウシカたちが生きる未来を見てみたい、という気持ちも生まれました。
ナウシカのような一度世界が滅んだ後の世界はなかなか想像つかないかもしれません。ですが、日常の延長にある、想像がつくような世界でも同じように問いが立てられるはず。
自分たちの生活と地続きな世界を描いて、問いを投げかけたかった。その結果が、『AIの遺電子』なんだと思います」
生成系AIが急速に広がり、AIとの共生について多くの人が自分ごととして考えなければならなくなった。避けられない変化なのであれば、仕事や生活が激変する不安にさらされるのではなく、どうやっておもしろがるかが重要になる。
作品に触れたことのない人は、アニメも放映されるこのタイミングにぜひ触れてみてほしい。ずっとAIとの共生を想像してきた山田氏が描く世界には、この変化に向き合うためのヒントが散りばめられている。
取材・執筆/西山武志 編集/モリジュンヤ 撮影/須古恵