東川町の町長らに伺ったデザインミュージアム構想。その中心を占めているのは、椅子研究家の織田憲嗣さんによる「織田コレクション」だ。近現代における優れたデザインの日用品を長年にわたり収集、研究していくなかで培われた審美眼の持ち主である織田さんに、人とモノとの関わりや、デザインを未来につなぐ意義について尋ねてみた。
(この記事は2022年12月14日(水)に発売された『XD MAGAZINE VOL.06』より転載しています)
「モノ」との濃密な関係
デンマークの歴史的名作を中心に1,350脚を超える世界各国の椅子や6,600点にも及ぶテーブルや照明、カトラリーからなるモダンデザインの珠玉のコレクションを一世代で築いた、織田憲嗣さん。織田さんは、高島屋のグラフィックデザイナーとしてキャリアをスタートさせ、趣味ではじめた椅子の収集活動が高じ椅子研究者に転身。東海大学で教鞭を取りながら北欧モダンデザインに関する執筆や講演、展覧会に尽力してきた。そんな織田さんが自ら、使いたい家具を配置するために設計したというご自宅にお邪魔した。
場所は、旭川空港から車でわずか数分。果てしない青と緑、その間をまっすぐに突き抜ける一本道……いかにも北海道らしい雄大な景色の中にひっそりと佇む織田邸。天井高5mの1階リビングには、インドネシア製のプリミティブなカヌーとイタリア製シャンデリアが吊るされ、壁面にはインド・サリーのパッチワークが飾られている。庭に面した窓に向かって置かれるのは、一木から削り出したアフリカ製のベッドやビヨン・ヴィンブラッドの大皿。
織田邸では、北欧のモダンデザインだけでなく、アジアやアフリカ、全く異なる場所や時間でつくられた「モノ」が運命的に隣り合わせになっている。これは何なのか、あれはどこで買ったのか、と一つひとつを聞いて回ると本来の取材が一向に進まなくなってしまう。ふと、フランスの歴史家アルレット・ファルジュがアーカイブを大海にたとえ、歴史家の仕事を潜水になぞらえていたことを思い起こす。これだけのモノをどのように管理し、掃除しているのかと聞くと、織田さんはこの家でのルーティーンについて教えてくれた。
織田さん「僕の役目はハウスキーパーで、掃除は全部自分で行います。毎朝6時半に起床すると、玄関とテラスの掃き掃除。夜、お風呂から上がると浴室の水滴を一滴残さず吹き上げます。雨の前日や来客の前には草刈りもする。不便で手間がかかるけど、昔は当たり前に皆がしていたことです。この齢になっても毎日欠かすことなく続けています。僕は人生すべてをモダンデザインに捧げてきたモダンデザインの奴隷です」
モノに対する責任とモノを愛用する流れが確立されていてる織田さんの「暮らし」がこの家を貫き、支えていることが眩しいほど伝わってくる。続けて織田さんは、「いくらお金がかかっても修理したい」と言う。
織田さん「蘇るうちはモノの寿命が尽きていない。傘の張り替え、包丁の研ぎ、布団の綿の打ち直し、洗い張りからの仕立て直し。昔はそれぞれに、修理専門の職人さんがいて、町に1年に1度は来て直してくれました。最後の最後まで使い切る文化が根づいていたのに、買い替える方が安い社会になったから、その価値観が壊されてしまった」
建築家・宮脇檀との親密な関係
書斎に入ると窓の隣に、絵付きのアニバーサリープレートが2枚飾られている。ボックスシリーズで一世を風靡し、小住宅の可能性を追求した建築家・宮脇檀(みやわき・まゆみ)さん(1936-1998年)からの贈り物だ。「宮脇先生はね、お茶目で子どもの遊び心を失っていない大好きな人。うちの家内も大好きですよ」と言う織田さんは、少し目頭を熱くしているようにも見え、親交の厚さが窺い知れる。
織田さん「僕が本格的に椅子の道に入ったのは宮脇先生の影響もあります。1970年代の後半、まだ椅子のコレクターとして駆け出しの頃、『anan』だったか『non-no』だったか女性誌で宮脇先生の記事を読みました。『椅子を77脚もっていて、マンションの部屋の端から端まで床に降りずに椅子の上を歩いて渡っていける』と紹介されていて、面白い方だなって思ったんです。縁があって一緒に旭川の国際デザインコンペで仕事をしたり、私の単身赴任先の部屋に遊びに来られたり、一緒にドライブしたり。宮脇先生は自分の首に締めていた椅子柄のネクタイをその場で外して、僕にプレゼントしてくれたこともありました。
宮脇先生の闘病中には先生が大好きだった赤い薔薇をお店にあるだけ買い占めてお見舞いに行ったこともありました。そのお返しにもらったのが絶筆となった『最後の昼餐』(1997年)。裏にはご本人のサインも入っています。そして、そのときの筆談のメモも残しています」
これが最後の贈り物だと思っていた織田さんに、お葬式の1年後、これまでにない規模の贈り物が届いた。遺言状に「織田さんへ遺品を託したい」と書いてあったのだ。家具や蔵書、模型、図面だけでなく、趣味で集めていたマリリン・モンローのグッズや一級建築士の免許証、使いかけの小さな鉛筆、亡くなる直前の筆談メモまで。まさに「宮脇檀アーカイヴ」を譲り受けた。
織田コレクションとは
「宮脇先生から贈られたモノを、今度は僕から次の世代へ贈る」という織田さんの眼には覚悟も映る。無論、宮脇さんだけのことではないだろう。
織田さん「単にコレクターだからあの人にあげようという気持ちにはならなかったと思う。研究者であることを認めてくれて、そういう信頼関係があったからこそ、託してくれます。だから、僕のところに来たら、もう他所に行くことはないようにしたいです。うちに来れば絶対に散逸させない。そういう思いで活動しています」
織田さんはまた、次のように補足した。
織田さん「価値がわからない人に渡してしまったら、日用品は儚い。価値観の違う人に残しても意味がない」
聞けば、織田さんの収集癖は、物心ついた頃からあったという。高知県に生まれた織田さんは化石や鉱物探しに興じ、古銭や切手を集める小中学生だった。大学生になると「なるべくいいものを買いたい」とロレックスやモンブランの万年筆“マイスターシュテック”の作品に目をつける。当時買い求めた時計を今でも大事に使っている織田さんだが、収集に対してはシビアな面も併せもつ。
織田さん「モノに走るなんて、精神の貧しさの裏返しだと思っています。アマゾンの長老が『後世に何かを残そうとする人は生き方に自信がないからだ』という言葉を残しているのをテレビ番組で見ました。アマゾンの奥地に住む人々には文字もないし、建物だって1ヶ月、2ヶ月住んだら、簡単に離れてしまうでしょう。僕の場合は、自分に自信がなくて、こんなことになったんだと思います。ただね、周りから見たら遊びにしか見えないようなことでも、それを徹底したときにある種の壁を越えるんですよ。その壁を越えられなかったら、単なる趣味で終わり。物笑いの種になってしまう。家の中が骨董品だらけです、という人は壁を越えられなかった人だと思います」
織田さん自身が「壁」を越えたときについて問うと、「1979年、アメリカを代表する家具メーカー・Knoll International Japanのバーゲンセールのリストを見たとき」とはっきりとした応えが返ってきた。
織田さん「セールのリストを見たら、ハンス・ウェグナーのY チェアーが1万円でした。今と相場が違うけど、それにしても、ですよね。そのセールがはじまってもう1ヶ月くらい経っていたから、ほとんどが東京の建築家に買われてしまっていました。しかしながら、とにかく名だたる名作が信じられないような値段で売り出されていました。『これは後世に残さないといけない!』という責任感が生まれて、あるとき払いの催促なしという条件をつけて、その場でキープしていったんです」
その数、数十脚、450万円分ほど。以降、織田さんは椅子を研究対象としてとらえ、34歳(1980年)のときに仲間とともに「CHAIRS」(Chairs?=椅子とは? という問いかけの姿勢を損なうことがないようにとの思いでSのスペルをクエスチョンマークふうにデザインしたロゴマークとなっている)を設立。コレクションを増強させ、研究に邁進した。
デザインミュージアム
これまでも精力的にコレクションを貸出してきた織田さんは20代の頃から日本にデザインミュージアムをつくるのが夢だった。ミュージアムはコレクションを守り、より多くの人に本物を体験してもらうことができる場所だからだ。
織田さん「ミュージアムに行けば本物・オリジナル・製品のルーツが見られます。ひとりでも多くの人に本物がもつ魅力やデザインの力を知ってほしいのです。それらの展示物は来館者一人ひとりの生活文化を高めることになると、僕は信じているから」
2017年、織田コレクションは北海道・東川町で公有化され、現在4箇所でコレクションの一部が一般公開されている。さらに、織田コレクションを核とした東川町立のデザインミュージアムが計画されはじめている。その状況について織田さんに聞いてみると、率直な意見を述べてくれた。
織田さん「デザイン・ミュージアムっていうのはやはり物語性が大事。大都市圏や海外から北海道のデザインミュージアムに訪れる人は、北海道の大自然を期待してくるでしょう。ミュージアムだけでは集客が難しいから、自然や食をポイントにしていく必要があると思います。だから、古い倉庫を直して使う案も出ているようですが、本当は町が所有している北海道で一番美しく旭岳が見える土地にデザインミュージアムにふさわしい建物を新しく建ててほしい。それが本音です」
たしかに、大自然や美味しいものとともに、静かなミュージアムがあって、そこでゆっくりと美しいデザインを堪能できたらどんなに贅沢な旅になるだろう。そしてもし、デザインミュージアムがひとつだけでないならば、街中のミュージアム、野外のミュージアム、音響設備のあるミュージアムなど様々なシーンに合わせた多様なデザインを巡ることができるだろう。そしてこの織田邸こそ、大自然のなかのデザイン・ミュージアムのひとつにもなりえそうだ。織田邸は、ヒューストンのバイユー・ベンドコレクションやロンドンのサー・ジョン・ソーンズ美術館など、住宅でコレクションを展示する海外の邸宅ミュージアムを連想させる。
贈るとは、「気持ち」を送る行為
織田さんの“贈られ経験値”の高さを知ってか、東海大学で教鞭をとっていた頃、ある学生が恋人への誕生日プレゼントについて相談に来たという。予算は5,000円でセーターを贈りたいらしい。そういうセーターでは1〜2シーズンであまり着てくれなくなるだろうと思った織田さんは、柳宗理のカトラリー(フォーク、ナイフ、スプーンの3点セット)の購入を薦めた。
織田さん「5,000円だと足が出るかもしれないから、彼女の分だけでも、って。そしたら、彼女もすごく喜んでくれたみたい。柳のカトラリーならば、『Timeless』でしょ。どんな酷い使い方をしても壊れることがないし、20年、30年、50年と使えるデザイン。人に贈り物をするということは単にモノを渡すわけではなくて、こちらの気持ちをモノに託すことでしょう。モノを恋人に託す以上は、長く自分のことを記憶にとどめてほしいとか、ずっと使い続けて欲しいとか、ある種の気持ちを送っているんだから」
私たちは普段、20世紀後半につくられた「生産―消費―廃棄」のサイクルを疑うことなく、お金でサービスを買い、便利な暮らしを享受している。修理や手作りではなく、もっぱら買うことがメインで、モノとの関係は希薄な関係になっている現代において、織田さんが実践する「モノとの濃密な関係」は何か特別な響きを感じる。
「本物がもっている力やデザイン力を知ることが、自分自身の生活文化を高めることになる。だからこそ、デザインミュージアムがこの国にも必要だ」という言葉も、「モノとの濃密な関係」を築いている織田さんだからこそその信憑性は高い。
そもそも恩返しは絶対にするし、買ったものの責任は取るという織田さんにとっては、人であれ、モノであれ付き合い方は変わらないのかもしれない。「私は、人とモノとの濃密な関係を保っている」と語る織田さんの真剣な姿勢からは、時間もモノも飽和状態な現代に必要なものがあるように感じられた。「贈る」「購入する」という行為のなかで見えてくる人とモノ、人と人との関係。改めて見直されるべきなのかもしれない。
取材・文/服部真吏 写真/Sayuri Murooka (SIGNO)
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