今は不確定性の高い時代だと言われる。それまで社会で前提とされてきた「常識」が通用しなくなり、未来の予想も立てづらい。その予想のつかなさは、新型コロナウイルスの感染拡大によって、ますます加速した。価値観や社会の規範が変われば、求められる知性も変わる。だとすれば、今私たちに必要な知の在り方とはどんなものだろうか。それはきっと、詰め込み式の勉強でもなければ、数字目標のある資格の類でもないはずだ―。
教育者として多方面から注目を集めるウスビ・サコさんと、哲学研究を専門にしながら学校・企業・自治体などで哲学対話を行う永井玲衣さんが、「教育」「対話」「共生」の視点からこれからの「学び」について語り合う。
(この記事は2021年9月21日(火)に発売された『XD MAGAZINE VOL.02』より転載しており、記事の内容は取材当時のものです)

ウスビ・サコ
1966年、マリ共和国生まれ。京都精華大学元学長。バンバラ語。バンバラ語、英語、フランス語、中国語、関西弁を操るマルチリンガル。「空間人類学」をテーマに国や地域によって異なる環境やコミュニティと空間のリアルな関係を調査・研究している。近著に『アフリカ人学長、京都修行中』(文藝春秋社)など。

永井玲衣
人びとと、ききあい考えあう対話の場を各地でひらく。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)『さみしくてごめん』(大和書房)。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。
永井さん「私は小学校から大学までいろんなところに出向いて、哲学対話の授業をしています。そこで学生たちから感じるのが、間違ったことを言っちゃいけないというプレッシャーです。正解主義が根強くあるなと感じます。その延長に受験があるのかもしれませんが、そうした学びからいかに自分を解放していくのかが大人の『学び』を考えるうえでの課題なのかなと思います。サコさんはいかがですか?」
サコさん「日本の『学び』は、目標達成型の勉強になってしまっていると思います。情報が短期間で消化するようなものとして捉えられている。知識は本来、数十年後のふとした瞬間に活きてくるものであるはずなのに。

私は中学校や高校で講演するとき、最後は必ず『問いを立てられる人間になりましょう』と伝えるんです。というのも、今は答えを出すことが解決策になる時代ではないからです。私自身も工学部出身で、いつも『ソリューションを出せ』と言われてきました。でも、解決策だけではどうもうまくいかないとわかったのが現代なんです。だからこそ『問い』が重要になってくる。うちの大学では、学生に問いを立てる力をつけてもらいたくて、哲学を必修にしました。でも日本の哲学者とはよくぶつかるんですよ(笑)。哲学を教えられる先生を探すなかで、授業のプランを提出してもらったんです。そしたら、難しそうな哲学者たちの名前がズラッと羅列されていた。プラトンにソクラテスに、って。でも、そうじゃないでしょうと。何かを疑ってみたり、問いを立てられたりするようになるのが大事だと私は思うんです」
永井さん「おっしゃる通りですよね。学校教育では哲学にいちばん近い科目である『倫理』も、哲学史を教え込むことが中心になりがちです。大学でも『哲学』の授業で教えられるのはやっぱり哲学史が多いですよね。
ただ、私がしている哲学対話は、哲学を知識として学ぶのではなくて、哲学を『する』ことなんです。自分で考える。そして他者とともに考える。だから哲学対話は、ある種の『哲学』を別の方向に引き剥がすような、もしくはソクラテスがしていたような哲学の原点に返すような活動なのかもしれません」

顕本法華宗 総本山 妙満寺で行われた哲学カフェの様子。
自分の「声」を発見するためにこそ必要な「他者」との対話
サコさん「今の社会人にいちばん必要なのは、ダイアローグ(対話)だと思うんです。結論のない会話をすることは、忙しい社会人から見ると無駄な時間を過ごしているように思えるかもしれないけど、そこで自分も知らなかった別の自分にばったり出会ったりもする。知らない人と喋ることによって自分を発見していく。そして、他人を深く知っていくなかで、自分の当たり前が崩れていく。対話はそういうプロセスなんです。もっと言えば、そのなかで自分の『ボイス(声)』を見つけてほしい。学生たちを見ていても、日本人は他人の言葉を借りて喋っている人が多いと感じます。先生が、親が、誰々が、って」
永井さん「『自分のボイスを見つける』っていい言葉ですね。他者の声を聞いて自分の土台が壊れることに慄きつつも、それを楽しみながら、自分の言葉を見つけていく。自分自身をつくっていくことがまさに必要で。それは自分ひとりではできないというのもポイントだと思うんです。自分自身の声を獲得するために人と対話するんですよね」
「他者」は、近年声高に提唱されている共生社会やグローバル社会の実現を目指すうえでも重要なキーワードである。しかし問題は、その「他者」が誰なのかということだ。かつて他者論を研究していた永井さんは、「他者」は決して居心地のいい存在ではない、と述べる。

永井さん「共生社会って異質な他者と暮らしていくことだと思うんですが、他者は決して素敵な存在ではないんですね。言ってることもわからなければ、意見も全然合わない、不愉快な存在なんです。それでも一緒に共生していく方法を考える。この『それでも』の苦しさやためらいが重要で、そこをすっ飛ばして『ダイバーシティ』だ『共生社会』だと言葉を掲げるだけでは、大事なものをたくさん取りこぼしてしまうと思います」
サコさん「共生社会でもグローバル社会でもそうですが、お互いの大切にしていることを認め合うのが重要だと私は思います。それこそが真の多様性です。同化して合わせていくのが多様性だと思われていますが、そうじゃない。むしろ違いを強調していくことが必要なんです。その過程では、議論してめっちゃ喧嘩することもあるかもしれない。でも、とことんぶつかり合わないと、お互いの譲れないところも理解できないですよ。共生社会をつくるには、そういうプロセスが必要なんです。合わせましょうね、平和になりましょうね、楽しくしようねって、そんなん違うから。お互い命がけなわけだから、真剣勝負の対話なんです」
永井さん「私は哲学対話をするとき、『人それぞれはなし』というルールを設けることがあります。『人それぞれ』は当たり前だから、『結局人それぞれだよね』をゴールではなく、起点にしましょうと言うんです。もし人それぞれだとしたら、どこが違うのか、どこだったら折り合えるのか、そのポイントを探求しましょう、って。対話や哲学は(共生社会もそうかもしれないですけど)、『わかり合うこと』じゃないんですよね。『わかり合うこと』ではなくて、『わかり合おうとすること』が大事なんです」

「知」に従属しないための「知」との付き合い方
サコさん「今言われている社会人の学び直し(リスキリング)は、試験や資格の証明書を増やすことになってしまっていますよね。そして会社もそれを評価している。でももっと哲学対話への参加や講演会を聞きにいくことが評価されたらいいのにと思うんです。数字や証拠がないかぎり『勉強』とみなされないのは問題です」
永井さん「社会人の学びが、いかに効率的に知を吸収するかということに矮小化されているんですね。ダイアローグはそれとは逆で、ゆっくりするものです。滑らかに進んでいる(ように見える)ところに、『それ、本当にそうですか?』『なんでそう思うんですか?』と亀裂を入れて、凸凹にしていく。そんな場なんです。対話は、普段の会議での『いいこと言わなきゃいけない』とか『部長だから部長らしく話さなきゃいけない』みたいなプレッシャーから解放される場でもあるし、なにより、利益や効率性と関係のない事柄についてじっくり考えるのは、単純におもしろい」
サコさん「効率性もそうですが、日本に来て強く感じたのが、ミスは許さない、という空気です。アイスブレイキング(初対面の人の緊張をほぐすテクニック)が流行ったときに、ある先生から『アイスブレイキング関係の本6冊読んできたから完璧です』と言われてびっくりしました。何言うてんの? アイスがもっとカチコチになってるやんって(笑)。必死にマニュアル化しようとしてたんです」

永井さん「知を効率的に吸収するような学びのあり方は怖いなと思っています。それは結局知識に従属している状態なんですよね。『〇〇の本何冊読んだ』もそうですが、たくさんの知をコンテンツとして貪っているときは、そこに『私』がいないんですよね。それは知を吸収しているようでいて、実は、知にぶら下がっている状態。ぶら下がりではない仕方で、いかに『私』と知を関係させていくか。そこがポイントになると思います」
サコさん「学生たちにいつも言っているのは、学校で与えられるのは情報であって、知識ではないということです。知識というのは、情報を受けとった自分が、気になったキーワードを掘り下げたり、あるいはそれについて友達と議論したりしていくなかで獲得するものです。
もうひとつ大事なのが、いろんなものを受け入れる柔軟性。知識を自分の鎧にしている人は排他的になりやすいんですよね。以前、『映画が好き』と言ったら、映画オタクの方にどの『監督?』と訊かれたことがありました。『ぼんやりと』とだけ答えたら、『〇〇(監督)のアングルが!』とまくし立てるように話し出して……。それ以来、『映画が好き』と言うのが怖いんですよ。単純に『好き』でいさせてくれない。好きなことについて詳しいのはすばらしいことだけど、それが自分を解放させるのではなく、どっちかというと、その知識に縛られて不自由になっている人が多いように見えるんです」

インドネシアで行ったフィールドワークの様子。現在は行っていな
いが、生徒を連れて海外で実施指導を行うことも。
価値観を複数化せよ
知識をやみくもに摂取しても、そこに「私」がいなければ、知識によって雁字がらめになり排他的になっていく。そうならないために必要な主体性や柔軟さは、どのようにして身につけていけばいいのだろうか。サコさんは「自分を複数化させること」の重要性を説く。
サコさん「学校の教育って別に信じなくてもいいんですよ。私の出身のマリ共和国では、学校で習う国語がフランス語で、小学校で最初に読まされるのもフランスの小説なんです。題名は『雪が降った日』。でも待って!マリに雪は降らへんで(笑)。めっちゃ現実味がないんですよ。全部イメージ。日本は、学校の教育フレームに縛られすぎているんじゃないでしょうか。学習指導要領で望まれている人物像に寄せていくことが求められて、そこから外れると社会や家族からも外されてしまう、と考えられている。でも、家には家の、学校には学校の、地域には地域の価値観があって、学校の教育はそのうちのひとつでしかないんですよね。そこで行き詰まったら、別のところに行けばいい。自分を複数化させておくのがいいんです。
小学校の生徒たちと関わる機会も多いのですが、みんな哲学的で、積極的に質問してくるんですよ。でも、大きくなればなるほど、そうではなくなっていく。そういう意味でも、教育の枠組みは今後見直していく必要があるんじゃないかなと思っています」

永井さん「小学校で哲学対話をすると、すごく盛り上がるんです。問い出しをすると、数分で何十個も問いが出てきて黒板がいっぱいになる。だけど、大人とやると10分くらい沈黙で、かろうじて出てくる問いも、老後についてだったりして(笑)。それだけ社会人にとって、そういう話をする機会が少ないということなんですよね。だから、対話の場をたくさん開いていくことが重要だなと思って、私自身、活動を続けています。問題はそこにアクセスできない人はどうするか。すごく難しいですけど、安心な場所をつくることがまずはひとつ手がかりになりますよね。ものごとを探求するときに何が必要かって、個人の能力ではなくて、実は安心して話せる『場』なんです」
サコさん「安心できるのは重要ですよね」
永井さん「ですよね。そうじゃないと、『探求』は育たない。なので対話の場をつくるときはすごく気をつけています。『安心な場』というのは誰も傷つかないっていう意味ではなくて、傷ついたとしてもそこにいて大丈夫だと思えたり、恐れずに話したいことを話せたりする空間のこと。たとえば、職場でこちらが問いを投げかけても、みんなから排除されることってあるじゃないですか。それはすごく怖いことだと思うんですよね。
これ読んでいる方も、うちの職場じゃできないよ、家族じゃできないよ、なんて思われるかもしれません。でも、できることもあると思っています。たとえば、いきなり対話をはじめるのではなくて、わからないことを『わかんないです』とあえて言ってみるとか。会議のスピードを少しゆっくりにしてみるとか。これはある種の社会運動だと思うんですけど、そういう小さな運動をちょっとずつ試していって、場そのものを変えていく。それで場ができてきて、いけそうと思ったら、問いを投げかけてみる。そういう小さなステップの積み重ねのような気がします。私も答えはないんですけど、今日サコさんとお話しながら、そんなことを考えました」

取材・文/平岩壮悟 永井玲衣、写真/室岡小百合 ウスビ・サコ、写真/西村明展




