本記事は、中国のテクノロジーを中心とする社会動向に精通した家田昇悟氏の寄稿記事。2010年代初頭から中国におけるIT化の動向を追い続け、現在は中国に暮らす同氏が体験した、中国の最新顧客体験トレンドを紹介していただく。
ここ数年、中国における生活全般のIT化が目覚ましく、注目を集めている。
例えば、2013年頃からモバイルペイメントが急速に普及し、大都市であれば現金を持ち歩かずに、スマホだけで生活ができるようになった。すっかり生活に浸透し、今やスマホでしか決済できない店舗もあるほど。高度に普及したモバイルペイメントは消費者や小売の行動を大きく変え始めている。
筆者は2012年から現在まで4回、合計3年間を中国(上海)で暮らしている。前職は日本でPM(プロダクトマネージャー)としてECとモバイルペイメント事業に従事し、現在は大手リテールやメーカー向けにデジタル領域を支援する上海の現地企業で事業開発担当・営業として働いている。
本連載では、変化する中国社会の“体験”を上海で生活する消費者の視点から紹介したい。初回のテーマは生活者・サービス提供者双方の頭を悩ませる「待つ」”体験。モバイルペイメントの普及によって起きたその変化を、2つの事例と共に紹介する。
レジをなくした「luckin coffee」
1つ目は、中国発のコーヒーチェーン『luckin coffee(ラッキンコーヒー)』。創業からわずか19カ月で2,000店舗以上に拡大し、2019年5月17日に米国市場へ上場。非常に勢いのあるスタートアップとして中国国内では有名だ。
特徴は注文や決済を専用アプリからのみに限定したことだろう。アプリで注文すると最寄りの店舗でコーヒーが準備され、店舗でピックアップするか、指定の住所まで届けてもらうかのいずれかを選んで受け取れる仕組みだ。
店舗はオフィスビルの1階に入っていることが多く、以下の写真のように座席は用意されていない。コーヒーを淹れるためと、取りに来てもらうためだけの店舗である。確認できる範囲では、店舗は注文を受けないのでメニューもなければ、物理的なレジも一切ない。
商品の準備が終わると、店員は袋に詰めて置いておき、配達員が取りに訪れる。下右写真のように、配達員が自ら袋に詰められるよう、袋はカウンター前に置かれている。
店舗によっては、配達にすぐ対応できるように店の前で待機する配達員もいる。
日本でコーヒーを買うためには、多くの場合、注文をするためにまずレジで並ぶ必要がある。しかし、そもそも私たちはなぜ「並ぶ」という行為をしていたのだろうか。それは、レジの台数に制限があり、注文を受けるには対面でのやり取りが必要で、対応人数に限りがあったからだ。
luckin coffeeは「並ぶ」という行為を生み出すレジでの注文を排した。すべてアプリ上で完結させることで、同時に複数の注文を受け付けることを可能にし、店舗のレジオペレーションにより発生する顧客の「待ち時間」をなくすことに成功したといえる。
このように、luckin coffeeが実現したのは「待つ」体験のアップグレードである。これは店員のオペレーションの軽減やスペースの削減にもつながり、急速な事業のスケールを達成したのだ。
事前注文が今後もさらに浸透すると、顧客が街を歩いているときに「どのお店を選んでもらうか」ではなく、それ以前にスマホで「どのアプリを選んでもらうか」がより重要になる。luckin coffeeのように、座席は不要だ。店舗のマーケティングにも影響を与えるだろう。
QRコードを使った、モバイルオーダーの浸透
2つ目は、レストランで注文から決済までをスマホ上で完結できる「モバイルオーダー」サービスだ。
ご存じの方もいるかも知れないが、中国では「QRコード(読み取らせる方式と読み取る方式がある)」を用いたモバイルペイメントが生活の一部になっている。日本では「Suica」や「iD」など非接触ICによるモバイルペイメントが主流だが、中国はそうではない。
中国人にとってQRコードをスキャンするという行動は、極めてありふれた日常のひとコマである。
モバイルオーダーはこのQRコードを活用する。レストランに行くと、テーブル上にQRコードが貼ってある。自分のスマホでこれをスキャンすると、テーブル固有の注文ページへ遷移し、そこから商品を選択、注文できる。
注文は直接キッチンに飛び、調理を開始。運ばれた食事を食べた後は、同じWeb上から「Alipay」もしくは「WeChatPayment」で決済する。店員には「決済したよ」とひと声かけて退店するという具合だ。
お店によっては決済した画面を見せることを求められる場合もある。アプリをダウンロードすることなく、Webで完結するため、訪れたことのない店舗に行く場合でも手間を感じることが少ない。もちろん、複数人での同時注文にも対応している。
店舗には、コスト削減やマーケティングツールとして貢献している。CBNDataと口碑(Koubei)の調査によると、ある店舗でモバイル・オーダー導入後、注文時間が9分40秒から8分10秒へ、注文の復唱が42秒から0秒へ、注文のシステム入力時間が1分10秒から0秒へ、レジでの支払いが3分30秒から0秒へと短縮された。
結果、それぞれのテーブルで約7分が節約され、人件費削減にも大きな効果をもたらしているという。他にも、紙の削減やデータ蓄積によるメニューの個別最適化もモバイル・オーダーのメリットであると、この調査では指摘されている。
日本であれば、注文のためにまず店員を呼ぶのが一般的だろう。対面で注文内容を伝える必要があるからだ。店員の数には限りがあるので、席に来るまでに時間がかかり、聞き間違え等のミスが起こる可能性もある。
しかし、モバイルオーダーを使えば、自分のタイミングで注文ができる。直接厨房に注文情報を送るため、オーダーミスも発生しにくくなる。ここでもまた、モバイルペイメントにより「待つ」体験のアップグレードが成功しているのだ。
阿里巴巴集団(Alibaba Group)と中国経済メディア第一財経の共同調査によると、Alibaba傘下でO2Oサービスを提供するKoubeiには2018年8月時点で30万の店が加盟するとの予測がある。美味不用等(Meiwei)や大众点评(Dianping)など他の業者を合わせると、現時点では、全国約100万のお店でモバイルオーダーができていると推計できる。
中国でレストラン向けに出店分析サービスなどを提供する辰智の調査によると、2017年時点で中国にレストランは566万店。外食5〜6回につき1回はモバイル・オーダーを提供する店舗に遭遇するくらい、日常的なものとして普及していると言える。
また前述のKoubeiの調査では、3級都市(ここ数年で地下鉄ができてきたような、まだ経済発展の余地が大きくある都市群)でも、既に約400万のKoubeiユーザーがモバイル・オーダーを使っていると述べられている。上海などの大都市のユーザーだけでなく、地方都市でもモバイルオーダーが広く使われて浸透してきているのだ。
「待つ」体験の最適化に必要なのは?
モバイルペイメントの浸透が顧客体験のアップグレードに大きな役割を果たしたことがおわかりいただけるだろうか。ただし、これは単なる浸透ではない。カギは「非同期決済」としての普及だ。
非同期とはデータを転送する際に、送信側と受信側のタイミングの一致を気にしなくていいことを意味する。決済で言えば、レジで消費者と店員が面と向かってスマホを見せるのは「同期決済」。モバイル・オーダーのように対面でのやり取りを必要とせず、双方のタイミングを気にしない決済が「非同期決済」だ。
レジをなくし、並ぶ行為をなくすことができるのは無論、「非同期決済」となる。それによって、中国から私たちの嫌いな「待ち時間」は消滅しつつある。
待ち時間は少なければ少ない方がいい。しかし、これまでは決済の前後で発生する顧客の体験にアプローチできていなかった。それを最適化するサービスは、モバイルペイメントが日本でも普及した先、もしくは同時に、日本でも広がっていくのではないだろうか。
文・写真提供/家田昇悟 編集/小山和之