経路検索や列車運行情報、駅情報などを提供する「JR東日本アプリ」。14年のリリース以降、累計数百万DLされていた同アプリは19年4月に全面リニューアルされた。このプロジェクトを担当したのが、東日本旅客鉄道 技術イノベーション推進本部でJR東日本アプリ プロダクトマネージャーを務める松本貴之氏だ。彼は、IDEO Tokyo、Pivotal Labsといった企業の協力の下、デザイン思考に基づいてリニューアルを推進していった。
これまで超多機能だったアプリは、リニューアルで機能が大幅に絞り込まれた。その結果として上がっている賛否両論の声を、松本氏は「慎重に受け止めつつも、悲観視はしていない」という。素案の制作を担当したデザインコンサルティングファームIDEO Tokyo Design Directorの田仲薫氏とともに、今回のリニューアルの裏側について話を伺った。
ドイツで学んだ「デザイン思考」の可能性
——今回のリニューアルについて伺う前に、そもそもどのような経緯で「JR東日本アプリ」はローンチされたのでしょうか?
松本:「JR東日本アプリ」の最初のバージョンがリリースされたのは、2014年3月でした。当時、アプリが担っていたミッションは、お客様に対して東日本旅客鉄道(以下・JR東日本)が様々なデータを活用していることを伝え、社内や関連企業に対してデジタルで様々な情報を提供できることを示すことでした。どんな反応が得られるかはわからないけれど、とにかく「世の中に出してみよう」というのが最初の目的でした。
リリースすると「こんな情報もJR東日本は持っているんだ」と興味を持っていただき、1年後の目標としていた20万DLをわずか数日間で突破するほどの反響が得られました。
ただ当時のアプリは、まずは世に出すことを目指して開発を進めていたので、使い勝手は二の次。開発段階で次から次へと要望を盛り込んでいったので、作りが複雑で立ち上がりも読み込みも時間がかかる。アプリの体験として、満足のいくものではありませんでした。
——当初は、データを世の中に出すこと自体が目的だったのですね。反響も得られたからこそ、「ちゃんと使いやすいものにしよう」とリニューアルを?
松本:おっしゃるとおりです。きっかけは、ドイツ鉄道が出していた「DB Navigator」というアプリでした。JR東日本とドイツ鉄道は定期的に技術交流をおこなっているのですが、その年の交流前にDB Navigatorがリニューアルされ、使い勝手が格段に向上していたんです。そこで詳しく話を聞いたところ、彼らが取り入れていたのが、デザイナー的思考をフレームワーク化した「デザイン思考」でした。
そこで、我々もデザイン思考を学ぼうと、ドイツでおこなわれているワークショップに参加したんです。3日連続のワークショップを受講した結果、デザイン思考は、JR東日本アプリに足りないもの補うには最適だろうと考え、リニューアルを決意。帰国後すぐ、デザイン思考を用いたデザインコンサルとして知られるIDEO Tokyoに相談に伺いました。
多様なリサーチで捉えた「ユーザーの視点」
——具体的に、どのような流れでリニューアルプロジェクトは進行したのでしょうか?
田仲:そもそもリニューアルをする上での方向性をどう定めるかを考えるため、はじめに「問い」を立てるところからスタートしました。「誰のためのアプリか?」「アプリを通じてどんな体験を届けるのか?」「何を変えていくのか?」メンバーで共通認識を作るところからプロジェクトははじまりました。
そのためには、ユーザーの行動や課題感を知らなければいけません。そこで、いくつかのリサーチを実施しました。たとえば「エンパシーエクササイズ」と呼ばれる、実際にアプリを使って1日過ごしてみるリサーチ。このリサーチでは、トイレを探したり、買い物をしたり、乗り換えに最適な車両に乗れるかを自分自身が試したりして検証しました。そうした試みを通じて見えてきたのが、JR東日本アプリは「いい商品を店頭に並べているのに、何屋かわからないようなアプリ」ということです。
——トイレ検索、駅ナカ検索、混雑状況、車内温度など、多種多様なコンテンツが備わっているゆえに、何のアプリかわからなくなってしまっている、と。実際のユーザーにもインタビューをおこなったのでしょうか?
田仲:はい。ただ、通勤や通学で利用するマジョリティだけでなく、旅行のプランニングをする人や、鉄道好きな方、そして「妊婦で外国人」といった二重にマイノリティの方などにお話を聞いています。
というのも、通勤・通学で利用する一般的なユーザーの声は、大体の場合アプリやサービスを作っている方々も理解していたり、データをちゃんと持っていたりする。一方、全く想定されていない視点でJR東日本アプリの魅力を感じている人、不満を持っている人の話は、想像ができない分、気づきが詰まっています。インプットの質が変わらなければアウトプットの質は変わりません。違った視点からの捉え方を見出すのも、IDEOが果たす役割なんです。
——確かに、学びがありそうです。
松本:そのほかにも、当社側の想いや事情をインプットするため、社内などさまざまな人へのインタビューも実施しました。アプリの開発メンバーから、アプリにコンテンツを提供してくれていたSuicaや駅ナカ・駅ビルを担当する部署、ひいては役員クラスにも話を聞き、アプリやJR東日本という会社にかける想いをIDEOに紐解いていただきました。
リサーチで見えた「移動」という軸
——リサーチからはどのような問いが見えてきたのでしょうか?
田仲:「よりよい移動体験を提供するにはどうすればいいか」という問いを定義しました。JR東日本は鉄道のみならず、ICカードや駅ナカの商店などさまざまな事業を手がけていますが、それらはすべて「快適な移動」をサポートする目的で作られている。そこで、「Quality of Travel」という言葉にたどり着きました。
一見、オーソドックスな問いに見えますが、「移動」に軸を定めたのがポイントです。軸ができたことで、まず「移動」があり、それを快適にするための「ショッピング」や「トイレ検索」が必要、といった優先順位がつく。どんな体験を届けたいかという「意志」が生まれるんです。
同時に、「人中心で考えましょう」というお話もさせていただきました。事業視点で考えると「こんなこともできる」「こんな機能もある」と語ってしまいがちですが、人視点であれば、それが誰かの役に立つかどうかを考えなければいけません。アプリの役割を絞っていく上ではとても大切になるとお伝えしました。
松本:そうですね。以上のことから人中心に既存コンテンツの分析をしました。アプリの需要を「通勤」、「(旅行などの)移動」、「駅ナカ探索」「スキマ時間の活用」という4つのカテゴリに分類。人の「ニーズとモード」に合わせ、コンテンツを考えはじめました。
田仲:JR東日本の利用者は通勤通学・旅行など目的も様々ですし、年齢も居住地域もバラバラ。すべてのニーズに応えようとすると、どうしても情報量が膨大になってしまいます。また、ニーズによってアプリと人の向き合い方(=モード)は異なります。であれば、そのモードに合わせてアプリ自体に求められるインターフェイスや機能要件も異なってくる。
たとえば、急いで情報を見たい時に使うアプリと、ゆっくり探し物をするときに使うアプリでは別ですよね。そこでJR東日本アプリは、コミューター(通勤・通学)向けとステーションガイドのふたつのアプリへのリニューアルを提案したんです。
松本:当初は正直、意味がわからなかったんですよ(苦笑)。ひとつのアプリを作り替える予定が、ふたつになるとは思いもしませんでした。
田仲:ユーザーの視点に立てば、ニーズやモードごとに整理されているほうが明らかに使いやすい。長い目で見れば絶対に効果的だと確信があったので、「分けましょう」という方針で通させてもいただきました。
とはいえ、普通にふたつ作るでは大変なので、「小さく出してテストをしましょう」と提案をしました。出してみてアプリの連携が上手くいけば切り分けて、片方のアプリが全く使われなければ統合しましょう、とご提案したんです。
松本:「どうにか、ひとつのアプリにならないですかね」という相談もしたのですが、「無理ですね」と取り付く島もありませんでした。(笑)どう進めるか悩んだのですが、まずはニーズ的にも間違いない方から1つ作ってみようと考え、着手しました。
GO! by Trainで得た“ユーザーへ届く”成功体験
——方針が固まった後、どのように開発を進められたのでしょうか?
松本:外部パートナーのデザイナー、エンジニアと協業しつつ、企業のソフトウェア開発を支援するPivotal Labsで効率的な開発手法を実践を通して学びつつ、開発を進めました。
Pivotal Labsでは、機能ひとつを開発するにも、ユーザーインタビューで課題を見つけ、そのソリューションを考えるプロセス繰り返します。この積み重ねでユーザーを認識する解像度が着実に上がっていきました。ただ、開発には想定よりもかなり時間がかかり、結果本来の予定を大幅におして、1つめのアプリの簡易版がやっとできたくらいでした。
——それで、ルート検索に特化したアプリ「GO! by Train」がリリースされたんですね
松本:そうですね。まずは、コミューター(通勤・通学)向けを想定したアプリとして、「ルート検索」を基本機能とし、その周辺で必要な情報を提供する「GO! by Train」をリリースしました。
このアプリは、ステーションガイドに該当する部分など、従来のJR東日本アプリから大幅に機能が少なくしたもので、コミューター向けアプリに需要があるかを小さく実験するための試験アプリ(MVP:Minimum Viable Product)として、従来のJR東日本アプリと並行運用にしました。目的が明確なアプリにすることで、反響を確認する意図もありました。
——実際、GO! by Trainは、どのような評価だったのでしょうか?
松本:機能的にはかなり絞られていたにもかかわらず、当初からAppStoreでも星4前後の評価をいただくことができていました。特に、アプリのターゲットとなる「東京圏で週5日電車通勤をしているビジネスパーソン」の方々に響いていたのが嬉しかったですね。
そこから、1年かけて運行情報や電車の走行位置情報などの機能を積み上げていったところ、評価も並行して高まっていきました。既存のJR東日本アプリの評価は当時、星2.6ほど。これはいけると判断し、19年の4月にリニューアルをおこなったんです。
レビューにはすべて目を通しつつ、次の一手を
——満を持して切り替えたのですね。ただ、「快適になった」「使いやすくなった」という評価とともに、機能を絞ったことでの「不便になった」という声も入り交じる結果となっています。これは、どのように受け止めているのでしょうか?
松本:ある程度、予想はしていたものの、反響はそれ以上でした。元のアプリが多機能だったからこそ、どうしても仕方ない部分はあります。ただ、ユーザーの求める機能をカバーしきれていなかった反省は大きいですね。
とはいえ、GO! by Trainでの経験を通し、ターゲットとするユーザーには的確に伝わっている感触があったのと、星1*でも「なぜ星1か」が見えるので、そこまで悲観的ではありません。*2019年8月現在、AppStoreは1.9・Google Play Storeは3.5の評価
これまでは、理由が分からず、レビューに書いてある言葉を受け、場当たり的に対応していました。ですが、いまは目指している姿とユーザーの声をもとに、優先順位を考え整理できる。誠実に応えていけば、数値も徐々に変わると思っています。
—— AppStore等のレビューは細かく見られているのでしょうか?
松本:オフィスに専用の画面を置き、常に表示しています。IDEOとPivotal Labsでの最大の収穫は、これまでブラックボックスだったユーザーを見る視野が開けたこと。そして、ユーザーと向き合う重要性を学べたことです。
レビューもユーザーからの貴重な声ですから、そこから適切に学びを得ることは欠かせません。直近では、いただいている声の中でも多い、自分のよく使う路線を登録できる機能や、自分の現在位置に近い駅を自動的に画面の中心にして走行位置を表示する機能など、優先度の高い機能を随時アップデートしていく予定です。
——リニューアルを経て、今後JR東日本アプリはどのような展開を考えているのでしょうか?
松本:「MaaS(Mobility as a Service)」はひとつのキーワードになってくると思っています。JR東日本でもMaaS推進部門を立ち上げており、アプリチームはその下に所属する形になりました。
MaaSの最もコアな考え方は、「出発地から目的地までの快適な移動を提供すること」。アプリのリニューアルにあたって立てた問いも「よりよい移動体験を提供するにはどうすればいいか」でした。
今後も、この「快適な移動」や「よりよい移動体験」という目標をブレイクダウンしながら、常にユーザー視点を持ちつつ、JR東日本アプリが担うべき役割を積み上げていきたいと思います。
執筆/萩原雄太 編集/小山和之 撮影/須古恵