どれだけ「圧倒的なブランド」を抱える大手でも、ひとたび時代の流れを読み違えれば、瞬く間に置き去りにされる昨今。気づかぬうちに顧客から選ばれなくなったり、市場そのものがなくなったりすることも珍しくない。
だが、危機感を抱く企業のなかには、既存のアセットをもとに「新たな試み」へと積極的に乗り出し、従来と異なる視点で顧客ニーズを捉えようとする動きもある。その一つが、京都に本社を置くワコールホールディングスだ。
創業70年を数える同社は2016年、JR京都駅の目の前に「ワコールスタディホール京都」を開設し、スクール事業やコワーキングスペース事業を営んでいる。2018年には、京町家を改修した宿泊施設「京の温所」の運営を始め、提供件数を拡大しつつある。
同社の強みである“下着”事業とは全く関連性がないようにも思えるが、無作為に領域を拡大させているわけではない。背景には、人々の課題を解決し「平和な社会」を目指すワコールの原点と、「美・快適・健康」という3つのキーワードが通底されているという。
歴史ある企業の内部で今、何が起きようとしているのか。ワコールの新規事業に並走する、未来事業推進企画室の西村良則氏に話を聞いた。
「原点」は変わらない——ワコールが“下着以外”に挑む理由
国内の女性向けインナーウェア業界で、最大手のワコール。1946年の創業以来、同社は「質の高い下着づくり」で顧客の信頼を獲得してきた。強いブランド力を維持しながらも、最近では3Dボディースキャナーを活用したサービス「3D smart & try」など、新たな取り組みも進めている
しかし、国内のインナーウェア市場規模は年々縮小しており、既存の下着事業は「決して楽観できる状況ではない」。西村氏は最初にこう指摘した。
西村氏「全体として堅調に推移していますが、国内の数字の落ち込みを海外でカバーしていることは否めません。市場規模の縮小はもちろん、顧客の嗜好の変化も大きく影響しています。今まで当社は、高い『機能性』を持つジャストフィットのインナーウェアを中心に開発してきましたが、最近はお客様のニーズも変わってきた。快適性がより重視され、楽に身に付けられるウェアが好まれるようになっているんです」
生活のなかで「人々が求める価値」は、時代とともに変わっていく。もちろん、既存事業で新たなニーズに対応していくことは必要だが、価値を提供するものが本当にインナーウェアだけでいいのか――。ワコールは自らに、それを問いかけたという。
西村氏「創業者の塚本幸一は、戦後間もない女性の姿を見て、『女性が美しく』いられる世の中にすることが重要と考えました。私たちの原点は今も変わらず、そこにあります。人々の気持ちや感性に寄り添い、課題を解決することで、平和な社会を実現させる。時間をかけて構築したブランドも、この理想のために生かすべきだと考えました」
西村氏の率いる未来事業推進企画室が誕生したのは2013年だ。同社のなかでも特に改革への強い想いを抱いていた塚本能交社長(現在は会長)のもと、既存のインナーウェアのイメージに捉われず、「新たな価値」の創出を目的に設立された。その際、塚本氏からは、現場で働く社員から出る意見に徹底して耳を傾けるよう指示があったという。
西村氏「実はワコールには、1980年代にもメンズスーツやフローズンヨーグルトなど、さまざまな異業種に参入した過去があります。ただ、トップダウンで事業を進めたこともあって現場がついてこれず、すべて撤退せざるを得ませんでした。昨日まで下着を販売していた社員にいきなり『別のものを売ってくれ』と言っても、モチベーションが続かなかったんです。だからこそ、今回は必ず『現場社員の声』を形にしてほしいと。
塚本はよく、自ら店舗に出向いて『ビューティーアドバイザー』たちと気軽にコミュニケーションを取っています。そうしたなかでも、日々お客様との間に起きていることと、トップに伝わってくる話に微妙なズレが生まれてしまうのがわかっていたんでしょう。『現場には絶対に、下着以外のことで何か可能性を感じている人間がいるはずだ』と考えていました」
『美・快適・健康』×熱量。課題は“スピード”
未来事業推進企画室の設立に伴い、ワコール内には提案制度がつくられた。社内からアイデアを集め、未来事業推進企画室がリサーチから立案、事業化までをともに行う。ここで重要となるのは、「ワコールがやるべき意義」だ。
西村氏「なぜ私たちがやるのか。誰もが納得できる理由がなければ、社内も巻き込めませんし、お客様にも理解いただけません。ワコールの場合、それが『美・快適・健康』という3つのキーワードになります。これらは、既存の下着事業を続けるなかで明文化されてきた言葉で、ワコールとしてやる以上、いずれかを満たすことが必須要件となっています」
西村氏「もう一つ見ているのは、発案者の熱量です。『ワコールだからこそやるべき』新たな事業が、そう簡単に見つかるとは思っていません。今でこそ社内の空気は変わってきたと感じますが、設立当初は向かい風も強かった。なので、それを突破できるだけの熱量が本当にあるか、相談レベルの段階からきちんと提案者と会って話すようにしています。たとえ最初は稚拙でも、真剣に考えてきたものはやっぱり伝わってくるものが違いますから」
それらの基準をクリアした事業案でも、実際にプロジェクト化して進めるのは想像以上に困難だったという。実例として西村氏が挙げたのは、ギフトカード事業だ。
日本では、男性が女性に下着をプレゼントすることがほとんどない。欧米と違って男性が一緒に店舗に入る文化がなく、サイズもわからないためだ。そこで、オリジナルのギフトカードをつくれば、贈り物として下着が機能し、新たなコミュニケーションが生まれるのではないかと考えた——。しかし、うまくはいかなかった。
西村氏「原因の一つは、担当者を専任にできなかったこと。この事業は2013年に提案があり、翌年春に発案者が本社へ移りましたが、異動先の“本業”は販売促進でした。どうしても既存業務に引っ張られて、進めるのに時間がかかってしまった。
もう一つは、社内の調整です。システムの構築にしても、プロモーションの方法にしても、いざ具体化しようとするとリスクが目につくんですね。『ああだったら』『こうだったら』とネガティブな要素ばかり出てきてしまって。それらを一つずつ潰すうちにまた時間が経ち、ふと世の中を見たときには、もうカードからスマホへと、流れが変わっていたんです」
西村氏「時代はすぐ変わりますから、とにかく早くサービスを出して、お客様に問いかけていく必要があるんだと身にしみましたね。事業である以上、『持続可能かどうか』は重要ですが、まず始めて『ダメなら引く』『よければ次に進める』のスモールスタートで検証するべきだったんです。そういった反省を重ね、今は発案者を準備期間から私たちの部署で受け入れ、立ち上げに専念させるなど、仕組みも少しずつ整えていきました」
やるべき事業としての「ワコールスタディホール」「京の温所」
そんな未来事業推進企画室の取り組みがようやく形になったのが、ワコールスタディホール京都だ。現場社員からの、「これからの時代には、“身体”だけでなく、もっと人の“内面”までも踏み込んだ美を提供するべきでは」という話がもとになった。
西村氏「さまざまな美について、誰もが学べる場づくりをしたい——。そんな提案があったので、すでに建設が決まっていたビルの活用プレゼンに入れ込みました。ビルの活用方法に関しては、他に外部からも良いアイデアが集まっていたのですが、長く“女性の美”をテーマにしてきたワコールとしても『最もやる意義のある事業だ』と判断し、結果的にその社員の提案が実現したんです」
空間やコンテンツのイメージは発案者にあったため、西村氏らはいくつものスペースを視察し、アイデアを補強していく。2016年10月、“身体・感性・社会”のそれぞれの美を学べる「スクール」に、「ライブラリ-」「コワーキングスペース」「ギャラリー」などを有する複合施設としてワコールスタディホール京都が誕生した。
西村氏「運営して3年ですが、開催されるワークショップなどにも人が集まるようになってきています。最近では、ワコールのグループ会社が運営する東京・青山の『スパイラル』(1985年に設立された複合文化施設)と連携した展覧会を開催したり、京都全体のアートイベントの一拠点としてなども提供していますね。
ここにも創業者の『21世紀型企業には文化性が不可欠』という言葉が影響していて。何十年も前の発言なのに現代に通じるものがありすごいなと感じますし、今は収益だけを追い求めず社会に価値を還元していくことが、どの企業にも求められている時代だと思うんです。だからこそ、ワコールスタディホール京都はワコールのブランド価値を、より高めていく存在になれると考えています」
新規事業として次に誕生したのが、2018年4月にオープンした京の温所だ。リノベーションした京町家を1棟まるごと貸し出す宿で、デザイナーの皆川明氏など多数のクリエーターと協力し、質の高い宿泊体験を提供している。
「快適」な宿と景観の「美」を守るという点で「ワコールがやるべき」と判断された事業だが、担当者に「京都市が抱える“社会課題”を解決したい」という強い想いがあったことが何よりの決め手だったという。
西村氏「京都のあちこちで町家が放置され、歴史のある、風情豊かな町並みが損なわれつつありました。さらに、提案のあった2017年当時、京都はインバウンドの影響で宿泊施設が全く足りておらず、違法民泊のトラブルに困っている人も多かった。
私自身も京都の出身で、かつて町家に住んでいたので、この課題意識には非常に共感しましたね。熱量そのままに出した社内プレゼンでも『これはいい、すぐやろう』となりました」
京の温所の一つの特徴は、その事業スキームにある。町家をワコールが買い上げるのではなく、10〜15年間の契約で借りて、リノベーションと宿泊施設として運営を行い、最終的には持ち主に返す。宿泊事業ではなく、住み続けられる家にすることを大切にしているのだ。
西村氏「よく『宿泊事業に参入されたんですね』って言われますけど、そうじゃないんですよね。快適な住居と、美しい町並みのサステナビリティを実現させようと考え、宿泊の課題と掛け合わせてみた結果として、京の温所が生まれました」
“課題”を見て変わり続ければ、サステナブルな企業になる
ワコールが提供する京の温所は、現在6棟。手探りだった運営も安定しつつあり、今後はさらなる棟数の拡大と、認知度の向上に注力する。実際、まだ稼働率に課題はあるものの、リピート率は高く、顧客アンケートなどからも手応えを感じていると西村氏は語る。
西村氏「京の温所では、お客様は京都駅に着いてすぐ荷物を私たちに預け、手ぶらで町を散策できるのですが、そのフロントがスタディホールにあることも、好評をいただいてます。特に女性だと、他に駅近の便利なサービスがあったとしても、見知らぬビルに入って荷物を預けるのは嫌だと。ここにスタディホールがあることで、『ワコールがやってたんだ』『この空間いいね』と、来た瞬間に和んでいただけるんですよ」
西村氏「宿泊されるお客様だけでなく、家主さん、そして地域の方にも、ワコールがやることで信頼して任せてもらえているのかなと感じます。使われない家があることは、地域コミュニティにとって大きな問題である反面、宿泊施設になることへの不安もある。なので、必ず事前に地域で説明会を開きますが、『外部に委託せず私たちで運営します』『何かあったらワコールにお電話ください』と言った瞬間にご安心いただけていますね」
その意味では、まさに「これまでに培ったブランド力」を生かせている事業と言えるのではないか。そう問うと、西村氏は頷きながらも次のように話した。
西村氏「信頼や安心は、たしかにワコールが培ったアセットの一つです。でも、それを使うだけで“圧倒的に選んでもらえる”事業にはならないと考えていて。ワコールが関わることで、業界にそれまでと違う概念をもたらすものを、もっと生み出したいと思っています」
ワコールが培ったアセットの例として、西村氏は国内で3,500人いるビューティーアドバイザーを挙げる。顧客の体に触れ、言葉を直接聞いているスタッフの知見やコミュニケーションスキルは、ワコールにとって貴重な資産だ。その“強み”を掘り下げて効果的に活かせる場面は、インナーウェアの販売に留まらないはずだと考えている。
西村氏「時代とともに必要とされるものが変わるなか、ワコールとしては下着の事業にこだわらず、これまで培ってきたアセットや想いを大事にしながら、お客様の課題を解決することを目指したい。10年~20年先には、『下着もやっていたんだ』と言われるくらいになりたいですね。たとえ入り口は何であったとしても、きちんと誰かの気持ちや感性に寄り添える事業であれば、結果としてブランド価値の向上に貢献してくれると考えています」
積み上げたアセットを生かし、さまざまな顧客との接点を持つことで、ブランド力を高める。そして、変化を続けることで、よりサステナブルな存在になる。これが今のワコールの新規事業の考え方だ。まだ小さいながら、手応えのある事業も実際に生まれ始めている。
人の暮らしも、美や快適への考え方も移ろうもの。しかし、創業時から変わらぬ「人々の気持ちや感性に寄り添い、課題を解決することで、平和な社会を作ること」という想いがあれば、ワコールからはこの先も、“意外だが価値ある”一手が生み出されるはずだ。
執筆/佐々木将史 編集/庄司智昭 撮影/其田有輝也