日本各地の祭りや民謡、伝統芸能を追いかけるライターの大石始氏が考える、日常に彩りを与えるヒントとは。
ここ10年ほど、僕は各地の祭りや盆踊りを追いかけ続けている。きっかけのひとつとなったのは、東京の高円寺で開催されている阿波踊り。高円寺は勝手知ったる馴染みの町だが、阿波踊り当日の高円寺は、僕の目にはまったく別の町のように映った。町中で太鼓と鉦が鳴り響き、老若男女は何かに取り憑かれたように踊り狂っている。町中が浮き足立ち、高円寺の町が阿波踊りにジャックされた状態とでもいおうか。それはそれは凄まじい光景だったのである。
日常から突如「非日常空間」が立ち現れる瞬間を目の当たりにし、僕のなかで表現しようのない感動が広がっていった。言語化できないほどの強烈な感覚を伴う体験とは、その後の人生に影響を与えかねないが、僕にとっての阿波踊り体験とは、まさにそうした「人生を変える体験」だったのだ。
岐阜県の白鳥おどり、奄美大島の八月踊りやショチョガマ、大阪各地の河内音頭、沖縄はコザのエイサーや宮古島のパーントゥなどなど、その後の僕は各地で祭り体験を重ねていった。
一度祭りの日の非日常を体感すると、その感覚は日々の暮らしにも影響を及ぼすようになる。たとえば、高円寺を歩いているだけでどこからか鉦の幻聴が聴こえてくるようになるし、新世界あたりに鳴り響くオッチャンの話し声が河内音頭の一節のように感じられたりする。そうした症状が悪化すると、僕のように「祭り・盆踊り脳」になってしまう。本人は日々が楽しくなるわけだから問題ないが、居酒屋の入り口から流れてくる民謡に対して過剰に反応するようになったり、電車の中吊り広告に掲載された祭りの写真をうっとりと眺めたりするようになるので要注意だ。
そうやって特定の体験が日々の感覚に反映されるように、知識が体験に反映されることもある。
あるとき、地元の焼き鳥屋に関するニュースが新聞に載った。建て替えのため木造の店舗を取り壊したところ、跡地から1万5千年前の焼き場が発見された。しかも焼き鳥屋の焼き場付近からは、石を焚き火で熱し、動物の肉を焼いた跡が見つかったというのだ。これは京都や奈良の話ではない。東京・吉祥寺の話である。それ以来、僕はその焼き鳥屋で芋焼酎の水割りを飲んでいても、旧石器時代からタイムスリップしてきた気分になれるのである。
あるいは、東京有数の繁華街である歌舞伎町。無数の飲食店や風俗店が立ち並び、欲望渦巻くこの町のど真ん中に、歌舞伎町の守護神である歌舞伎町弁財天が祀られている。かつてこの地には肥前国・大村藩守だった大村家の別荘があり、今では信じられないことだが、「大村の森」と呼ばれる森が鬱蒼と広がっていたのだという。中心には池があり、その畔りに弁財天が祀られたのは大正2年のことだった。
歌舞伎町周辺にはそのほかにも花園神社や新宿十二社熊野神社、稲荷鬼王神社がある。花園神社では毎年11月、60万人もの人で溢れかえる酉の市が行われ、商売繁盛の熊手を売る露店商がズラリと並ぶ。その光景もなかなか壮観なものだが、僕が大好きなのは境内の一角で営業されている見世物小屋。かつてほどエグい演目はないものの、エントランスをくぐるとやはり明治以前の大衆芸能の世界に足を踏み入れてしまったという感覚に陥る。客引きの見事な口上などは「男はつらいよ」からそのまま抜け出てきたような感じである。
欲望渦巻く歌舞伎町の町にはそうした異界への入り口がいくつも仕掛けられていて、なおかつ八百万の神々が町を守り続けているのだ。そういった知識をインストールしたうえで町を歩いてみると、歌舞伎町のネオンサインが不思議と神々しいものに見えてくる。
ありきたりで退屈な日常は、そのように意識や視点を変えることによって色鮮やかなものとなっていく。僕らの先祖もまた、イマジネーションをフル稼動することによって原始的な信仰心に形を与え、祭りや儀式を生み出してきたわけで、そうやって妄想を働かせることも案外無駄なことではないように思える。
そして、そうしたイマジネーションとは、闇に包まれたコロナ以降の世界を生き抜いていくうえで、炬火のようなものになるかもしれない。なんとなくそんな気がしているのだ。
執筆:大石 始 編集:BAKERU 撮影:大石慶子
ロゴデザイン:LABORATORIES イラスト:青山健一