前橋と聞いたとき、どんな印象があるだろう?
……言い方は悪いが、名産品にせよ、観光名所にせよ、パッと思いつかない人が多いかもしれない。
事実、90年代の後半からシャッター商店街の代表と呼ばれ、名実ともに「何もない」都市だった前橋。
しかし、そんな場所で、今最も注目すべきユニークな街づくりの取り組みが始まっている。
その象徴となるのは、約300年続いた老舗旅館をリノベーションし、2020年12月に開業した「白井屋ホテル」。プロジェクトに関わる面々は、建築家の藤本壮介氏を筆頭に、デザイナーのミケーレ・デ・ルッキやジャスパー・モリソン、アーティストのレアンドロ・エルリッヒなど各分野の超一流が集い、とにかく豪華。
仕掛け人は、株式会社ジンズホールディングス代表取締役CEOの田中仁氏。前橋出身の彼が思う、この街の未来とは? 氏とも親交が深く、今も共に活動する「一般社団法人前橋まちなかエージェンシー」代表理事の橋本薫氏の二人が目指す“前橋ならでは”の都市体験とは?
当たり前だけど、街づくりは難しい
1963年生まれの田中氏がまだ子供の頃、前橋の商店街は歩く人の肩がぶつかり合ってしまうくらい人に溢れていた。およそ一回り若い橋本氏でさえ、住んでいた群馬の郊外から前橋へ行く時は、両親にハイソックスをはかされて正装するという、特別な日の“お出かけ”の目的地だった。
橋本氏「1990年代、僕が高校生くらいのときまでは、バブルの余韻がまだ少し残っていました。でも90年代の後半か、東京から遅れること1〜2年くらいで、バブル崩壊の影響が出てきて、街に活気がなくなってきたんですよ」
田中氏「バブル崩壊に加えて、郊外に住む人が増え始め、いわゆるドーナツ化現象が進んだのも、中心地に元気がなくなった要因のひとつです。学校も、ほとんど郊外に場所を移したから、若い子向けのお店も姿を消してしまいました」
そうして長い間、中心地に活気がなかった前橋の街づくりに田中氏が関わり始めたのは2013年のこと。まず手を打ったのは、起業家としてJINSという日本を代表するアイウエアブランド を立ち上げた経営者だからできることだった。
田中氏「2013年に『なにか地域貢献できないかな』という気持ちで始めたんです。今も続く、起業家育成にフォーカスした『群馬イノベーションアワード』や『群馬イノベーションスクール』をやったりして。そこから徐々に街づくりに関わっていく中で、難しさにも気づきました。
当たり前だけど、人口が34万人いて、考え方はバラバラ。でも、みんなが当事者で、みんなが正解。それなのに私がボランティア精神で『こういう街づくりをしたい』と言ったとしても、受け入れられないじゃないですか。自分のお金もエネルギーも時間も賭けるからこそ、周りもちゃんと話を聞いてくれる。だから、いつの間にか街づくりに全てを賭していたんです」
熱量は周囲に伝播する。
田中氏の熱意や鋭い視点に触発され、今では起業する若い人も前橋で増えてきている。前橋に建築設計事務所を構え、街づくり団体・前橋まちなかエージェンシーの代表を務める橋本薫氏も、田中氏と出会い、本格的に街づくりへコミットし始めたひとりだ。
橋本氏「社会に出てからずっと、前橋で建築を生業としています。本業の傍ら、2011年から小さい空き家をリノベーションして、コミュニティスペースとして活用するボランティアをしていました。それまでは建築を作るだけだったのですが、東日本大震災でおもちゃのように建物が壊れていくのを目の当たりにして考えが変わった。人が過ごす場所よりも、コミュニティこそが本当に大事だなと思ったんです。だからこそ建物を通じて、人と人の繋がりを活性化させたいと、活動しています」
田中氏「初めて会ったのは、2013年のことだね」
橋本氏「はい。アーツ前橋の開館に合わせて、前橋にゆかりのある著名な方と、地元の若いクリエイターをトークセッションさせようという企画で。その際に色々お話しして、『街に対する愛情があるのはわかるけど、どうせやるなら本気でやろうよ』と言っていただいて」
田中氏「大きなうねりを作っていくには、お金やネットワーク、エネルギーが大事というのは、常々思っていたので、そういう観点から話をしたよね」
橋本氏「ボランティアと称して、悪い意味で“仕事じゃない”と思っちゃっていたんでしょうね。その後から、より本腰をいれて自分の中でも『本気』で街づくりに取り組むようになりました」
コンセプトは「前橋のリビング」
アワードやスクールを通し、田中氏がより本格的に前橋の「街づくり」に関わり始めるのが今回の「白井屋ホテル」のプロジェクト。このホテルが建っている場所は、元々創業300年を超える旅館「白井屋」があった。森鴎外など多くの文化人に愛されていたものの、1970年代には「白井屋ホテル」としてビジネスホテル業へ転換。それでも2008年に廃業となり、建物だけが残っている状態だった。
田中氏「そして2014年に『白井屋ホテル』計画がスタートしたんです。きっかけは、橋本くんや建築家さんから、ここが売りに出されているのを聞いたことでした」
橋本氏「風の噂で、都内のデベロッパーに買われて、マンションになるらしいと。でもその時、街にホテルがあることの重要性や価値を考えていたんです。というのも、アメリカで住みたい都市No.1であるポートランドの街づくりが注目され始めた頃で。
ポートランドでは、地元の人も出入りするようなラウンジがある『エースホテル』が中心的な役割を担っていた。そして前橋にも、街の外から来た人と中に住んでいる人が交わる、そんな場所があったらいいなって。田中さんも常々、『県外の人が泊まりたくなるようなホテルがあったらいいね』って言っていたので」
田中氏「それで男気を見せてしまったんだよね(笑)」
橋本氏「ありがとうございます(笑)。でも田中さん自ら経営すると言われたときは、びっくりしました」
田中氏「元気のない地域によくある傾向は、何か新しいモノ・コトを起こす、プレイヤーになる人が少ないということ。言葉は悪いけど、なるべく手を動かさずに、資産管理で利鞘を上げている人が目立ちがち。でも何かをやろうっていう人が多い時代にこそ、街は元気になると思っているから、『じゃあまずは自分から……』ってね。
このホテルのコンセプトは『まちのリビング』。前橋の歴史を紐解くと、新潟に行く三国街道沿いの宿場町。つまり、日本海と太平洋の交差点。そして、前橋の外の人と中の人がここで混じり合って、その出会いを通して前橋のビジョン『めぶく。』のように何かが芽吹く、そういう場所にしたい。そんな思いを込めて始まったのが、この白井屋ホテルのプロジェクトでした」
建築とアートと経済活動が混ざり合う街に。
フロントには、杉本博司氏の『海景』シリーズがあったり、吹き抜けの空間に設置された光のパイプは金沢21世紀美術館の『スイミング・プール』を作ったレアンドロ・エルリッヒだったり、宮島達氏のLEDのデジタルカウンターを鑑賞できたり。ここまでアート色が強いホテルはなかなかない。
そして、建築は渋谷PARCOの地下一階のカオスキッチンや直島パヴィリオンを手がけた、藤本壮介氏が全体設計を行い、一部の部屋は、ミケーレ・デ・ルッキやジャスパー・モリソンといった大御所建築家やデザイナーが実際にホテルを訪れてデザイン。このように、ホテルの所々に配置されたアートだけでなく、それらを取り囲む空間づくりにも著名なクリエイターが参加し、建造物そのものが贅沢なものになっている。
田中氏「美術館でしか見られない作品を、コーヒー1杯飲むだけで鑑賞できる。アートを見るためにお金を払うのではなく、生活導線上でお金を使いながら、アートに触れられるようにすることを、前橋独自の体験にしたいんです」
橋本氏「街中にそういう場所があったらいいですよね。そして、街にいる若い子たちに『何か面白いことが起こっている』という、街が変わっている息吹を感じてほしい。僕は地元の若い子に、前橋でも楽しめるんだってことを伝えたいんです。だから白井屋ホテルのオープニングでも、学生アルバイトを雇ってもらったりして。まだ泊まることはできないかもしれないけど、少しでも街づくりに参加している感覚を持ってもらえたらなって」
田中氏「ホテルのプロジェクトを通して改めて思ったけれど、前橋の魅力は、“開発されてこなかった”ことだよね。20世紀的な考えで、大量生産されたビルもなければ、区画整理もされてない。アーケードの脇道とか飲み屋街、街に出れば昭和のいい香りがする。(笑)」
橋本氏「手付かず感、ですよね。このホテルを作るにあたって、たくさんのクリエイターさんに街中を案内したんですけど、直感的にこの空っぽの状態に可能性を感じる人が本当に多くて。地元の人は魅力が見つけづらいと思っているんだけど、外の人は可能性しかないと言ってくれる。作り上げられた場と街の空気感から、何か新しいものが生まれてきそうだとクリエイターたちは敏感に感じ取っていて、それはポートランドの街が盛り上がりはじめた時の雰囲気に近しいものがあるのだと思います」
田中氏「課題としては、商売をしたい人や、何かをクリエイトしたい人、つまりプレイヤーがまだまだ少ないこと。だからこそ東京から郊外に行きたいっていうクリエイターや飲食業の人に、前橋を選んでもらって、いい循環をつくっていきたい。そのためにも、建築、アート、経済活動。それらを上手に混ぜ合わせながら、前橋ならではの体験を明確にしていかないとね」
執筆/koke1 撮影/室岡小百合 編集/鶴本浩平(BAKERU)