ここに、一風変わった雑誌がある。現在までに刊行されている3冊は「新しい問い号」「エレガンス号」、そして「名付けようのない戦い号」。一見すると「何の雑誌?」と思うかもしれない。雑誌の名前は『ニューQ』。企業のブランディングやUI/UX設計などを支援するセオ商事が、これもまたあまり馴染みのない「哲学事業部」という事業の一環として刊行している。
「新しい問いを考える哲学カルチャーマガジン」を掲げる『ニューQ』に収められているのは、「哲学対話のはじめかた」や「問いを立てるための公共入門講座」など、その名の通り「問い」や哲学に関する企画──だけではない。「名盤はいつまでも名盤? 書き換え続けられるジャズ史」「社会が見える英単語」など、およそ哲学とは関係のなさそうなコラムも並んでいる。
本記事では『ニューQ』編集長でセオ商事・代表取締役を務める瀬尾浩二郎氏と、『ニューQ』編集部・今井祐里氏にインタビュー。なぜ、いま哲学や「問い」にフォーカスを当てたのか? そして独特な誌面に込められた想いとは? インタビュアーに加え、XD編集部メンバーも巻き込みながら、気づけば当初予定していた取材時間の倍近くが経過。哲学や問いの重要性のみならず、ディスカッションの技法や組織文化の醸成にまで話が広がったロングインタビューをお届けする。
元エンジニアが「哲学カルチャーマガジン」を立ち上げるまで
答えを提示するのではなく、「問い」が書かれている雑誌『ニューQ』。2018年12月に創刊され、第3号まで発売されている。
創刊号である『ニューQ Issue01 新しい問い号』では、小説家・平野啓一郎や哲学者・寺田俊郎を迎え、「問いを立てて考えること」の意味に迫った対話などが展開されている。続く『ニューQ Issue02 エレガンス号』(2019年11月刊)には、ファッションデザイナーである中里周子と哲学者・梶谷真司による「エレガンス」を読み解く巻頭特集や、アーティストの野村康生と「自然科学のエレガンス」を追う記事などを収録。そして、最新号である『ニューQ Issue 03名付けようのない戦い号』(2021年8月刊)では、『人新世の「資本論」』の著者である経済思想史研究者・斎藤幸平らを招き、経済や民主主義といった社会的なテーマを扱っている。
この雑誌の発起人であり、編集長を務める瀬尾は『ニューQ』を創刊するまで、哲学に関しては「あまり詳しくなかった」という。そんな彼がこの雑誌を立ち上げた経緯はこうだ。
インタラクティブな広告やWebサービスをつくるエンジニア兼プランナーとして、働いていた瀬尾。やがて仕事の中でデザイン思考のワークショップを行うようになった。10年ほど運営していたが、「参加者たちの議論がなかなか深まらない」という壁に直面することになる。
打開策を模索する中でたどり着いたのが、「ユーザーの課題を解決するために、どんなサービスをつくるか」と最初からアイデアを考えるのでなく、「サービスをつくるにあたってどんな問いを立て、どのように探求していくべきか」をまず一緒に考えることから始めるという進め方だ。この進め方をもたらしたものこそが、哲学だったという。
2015年ごろ、瀬尾は人工知能の研究者である三宅陽一郎が開いていた「人工知能のための哲学塾」に参加。そこでは、脳神経学者やゲームクリエイター、あるいは趣味で参加している人など、さまざまな人が集まり「AIにとっての『経験』とは何か?」といった抽象的な問いについてディスカッションしていた。最初は「こんなにバックグラウンドが異なる人たちが集まって、議論になるのか?」と不安を抱いた瀬尾だが、ファシリテーターが身近な問いを立て複数人で対話をすることによって思考を深める「哲学対話」の手法でリードすることによって、それは杞憂に終わったと振り返る。
このとき「問いを立てて、考える」という営みと哲学の結びつきを知った瀬尾は、哲学対話の実践を手がける田代伶奈らと「問いを立てるワークショップ」を開催。企業向けに実験的に行ったワークショップを通して、それまでにない手応えを感じたという。この体験をきっかけに、瀬尾が哲学に対する興味を深めたことが、『ニューQ』の誕生につながっていく。
2016年に会社化したセオ商事は、2018年より『ニューQ』の制作を開始し「問いとアイデアの総合商社」を新たなテーマとして企画、UI設計、デザイン、編集を通してさまざまなモノづくりを手がけている。また2020年5月には、リサーチ、問いを立てるワークショップ、概念工学などの手法によって前提を問い直し、新しい価値の発見や、意味の再考から社会実装までを行う “メタフィジカルデザイン” を提供する「哲学事業部」を創設。
一方の今井は、上智大学大学院哲学研究科の修士課程を修了したのち、都内IT企業で勤務してきた。並行して、在学時から学校や企業などにおいて、哲学対話のファシリテーターとしても活動。「社会に生きる哲学」を目指し、哲学の実践活動を重ねている。
今井は「問いを立てるワークショップ」を実施していた頃に瀬尾と知り合い、のちにセオ商事にジョインすることになった。
「いい問い」のもとにこそ、人は集まる──そんな想いを胸に「問い」を徹底的に探究する雑誌をつくる二人を訪ねて、XD編集部はセオ商事の本社がある横浜に足を運んだ。
「哲学する」がクリエイションにもたらす影響を知りたかった
──この雑誌について聞いてみたいことはたくさんあるのですが、まず気になるのが、「なぜ“哲学カルチャーマガジン”なのか?」ということ。哲学に関する雑誌なら、シンプルに「哲学マガジン」と名づけるのが自然だと思うのですが、なぜそこに「カルチャー」を加えたのでしょうか?
瀬尾:正直、そこまで深い意図はありません(笑)。ただ、結果的に哲学を通してさまざまな文化について考える内容になったので、「哲学カルチャーマガジン」にしてよかったなとは思います。
もともと哲学研究者に話を聞きにいくというより、ものづくりをしている人たちが「どのような問いを立てて探求しているのか」を聞いてみたいと考えていたんです。問うこと、言いかえれば哲学そのものというより「哲学する」という営みが、クリエイティビティにどのような影響を及ぼしているのかを知りたかった。
もしかしたら、哲学書を読んで研究する“読む哲”と対になる“する哲”が形づくるカルチャーに焦点を当てようと思ったのかもしれないですね。
──「問い」にフォーカスしたいという想いは、創刊号の「新しい問い号」というタイトルにもよく表れていると感じます。なぜ「問い」に興味を持ったんですか?
瀬尾:「人工知能のための哲学塾」というイベントで哲学対話によるディスカッションを経験したことが、哲学に興味を持つきっかけとなりました。
自分はエンジニア出身ということもあってか、頭の中で自然言語を使って考えるよりプログラムや構造的なイメージでものごとを捉えることの方が得意なんです。だからこそ、言葉による「問い」の持つ力を知ったときは新鮮な驚きがありました。
その後も今井さんや他の哲学対話を実践している人たちと話していく中で、言葉で考えていくことの面白さに惹かれ、「問い」そのものについて探求したいという想いが強まりました。
テーマから記事に落としていくプロセスが、哲学そのもの
──『ニューQ』は瀬尾さん自身が数年間ずっと抱き続けてきた「問い」を起点に、創刊された雑誌だったのですね。この雑誌を読んだとき、「宙に浮いた抽象的な言葉ではなく、実感のこもった言葉が並んでいるな」と感じたのですが、そうした思考の蓄積の表れなのかもしれません。
「問い」への関心がダイレクトに反映された第1号「新しい問い号」に始まり、第2号は「エレガンス号」、第3号は「名付けようのない戦い号」と続きますよね。一見、脈絡がないようにも思えますが、これらのタイトルやそれに紐づく企画の内容は、どのように決めているのでしょう?
瀬尾:実は、タイトルとテーマについては、創刊時にほとんど思いついていたんですよ。どこかで「美学をテーマにしたい」と考えていたのを第2号で実現し、第3号ではとにかく社会派な内容にしたいと思っていました。
ただ、詳細な中身については、いずれの号もつくり始めた時点ではほとんど考えていなくて。
──どうしてですか?
瀬尾:『ニューQ』は制作に半年ほどかけられるので、つくりながら考える余裕があるんです。まずはざっくりとしたテーマを置いて、「このテーマから何を考えればいいんだろう」ということを思考しながら、形にしていく。たとえば、最初にインタビューをした方のお話を踏まえて、「こんな人にも話を聞いたらいいかもな」と企画を決めていくんです。その際、テーマに対して明確な解を持っていそうな人を選ぶのではなく、一緒に考えてくれそうな人にお話を伺う、あるいは寄稿を依頼するようにしています。
第2号の「エレガンス号」に関しては、ファッションデザイナーの中里周子さんの「ファッションとアートの上位概念にエレガンスがあると思う」という言葉が出発点になっていて。そこから雑誌の構成を考えていきました。
第3号も社会派な号にすると決めたものの、具体的な内容がなかなか決まらなくて。ただ、「スタディスト(勉強家)」としてさまざまな活動を展開している岸野雄一さんのTwitterでの発言の中にあった「名付けようのない戦い」というフレーズが気になって、まずそれをタイトルにして実際につくるときに内容を考えようと思いました。とはいえ、その「名付けようのない戦い」がどういうことなのかは、全然わかっていなくて。雑誌をつくる過程で、岸野さんに聞いてみようと思っていました。
今井:第2号で瀬尾さんは一つの問いとして、「エレガンス」といった言葉をタイトルにしているのだと思います。
最近、弊社の中で「問いとは何か」について、みんなで考えていまして。難波さん(セオ商事・難波優輝氏)が「問いの哲学」を研究しているラニ・ワトソンさんの論文を紹介しているnoteに詳しいのですが、いわく「問いはつねには疑問文ではない」と。
たしかに、と思いました。この話を『ニューQ』に引きつければ、各号のタイトルは疑問文ではないものの、大きな問いになっている。それを、どんどん小さな問いへと細分化していく作業が、私たちの雑誌づくりのプロセスなんです。
瀬尾:まずはかなり抽象的なレベルで問いを認識し、言語的な操作を介して誰にでもわかりやすい問いの形にしていくのが、哲学的な営みだと思っています。『ニューQ』はそれを雑誌という媒体で実践しているのかもしれません。
インタビュイーもインタビュアーも、とにかくしゃべる
──インタビュイーや寄稿者も巻き込んで、最初に設定した抽象的な問いに、一緒に取り組んでいるのですね。
瀬尾:インタビューも、識者からただ何かしらの知見をもらうのではなく、一緒に考えるスタイルを取っています。というのも、この雑誌を立ち上げるとき、「インタビューを哲学対話のように実施すると面白いのではないか」というアイデアが軸としてあったんです。だから、『ニューQ』ではインタビュアーもとにかくしゃべる。人数も多くて、記事によってはインタビュアーが3人いることもあります。
あるインタビュイーと対話を重ねていくと、その場でみんなが何かに新しく気づくような瞬間が訪れるんです。そうした探求の驚きを共に楽しめることが、このスタイルを続けている動機になっています。
今井:たとえば「愛とは何かについて一緒に考えたい」と。インタビュイーが「愛とは何か」という問いについて、それまで考えてきたことを聞けるのもとても嬉しいですし、こちらもインタビュイーの意見を踏まえて思考し、とにかくしゃべる。そうすると、インタビュイーもその場で悩みながら、さらに考えを深めてくださる。
共に考えを深めていくと、「なぜなのか、実はその場の誰もわからない」ことに気づくことがある。「わからない」と言えるのは哲学対話のいい点で、対話を通して新たな問いが生まれるんです。
瀬尾:「愛とは○○である」という明確な答えが知りたいのではなく、問いを立てて考え続けたいんですよね。読者が「愛とはこういうことである」と理解することではなく、読まれた方がそれぞれ「このわからない部分の続きをもう少し自分で考えてみたいな」と、感じてもらえることを大切にしています。
──たとえば、美学の専門家に「エレガンスとは、○○である」といった解説をしてもらう記事は載せないと。一方で、哲学のアカデミックな論文を紹介し、さらには著者に執筆の動機や論文のポイントをインタビューする「哲学論文紹介」というコーナーもありますよね。
今井:はい! 哲学論文の裏にある「問い」を紹介するための企画なのですが、これは私がずっとやりたかったもので。全ての哲学論文は著者が何かしらの問いを立て、その問いについて考察を巡らせているものであるはず。でも、論文を読んでいるだけでは「どんな問いから出発しているか」が見えづらいこともあります。
そこで、執筆した張本人に「こんな問いについて考えたかった」と説明してもらえれば、より面白く論文が読めると思ったんです。根底にある問いを読者に共有してもらうことを意図した企画なので、これもあるテーマについて識者に詳しく解説してもらう記事とは、ちょっと違います。
「考えの輪郭」を共に掴みにいく感覚を、読者にも味わってもらう
ここからは、インタビュアー以外にXD編集部の柏原、プレイドでデザイナーを務める石塚も加わり、計5名の対話に。きっかけは、雑誌内のある部分に『ニューQ』らしさを感じたという柏原の発言だった。
柏原(XD編集部):「エレガンス号」の巻頭特集「梶谷真司先生と読み解くNORIKONAKAZAWAのエレガントな世界」にとても感銘を受けたのですが、特に印象に残った箇所がありまして。梶谷さんが、参加者の一人である中里さんの考えがまとまらずに言葉に詰まったときにかけた「いいですよ、ゆっくり」(『ニューQ Issue02 エレガンス号』p24)という発言を記事に入れているじゃないですか。
雑誌なので、ある程度紙幅に制限もあるでしょうし、他に入れたい話もたくさんあったと思うんです。それでもこの一文を残していることに、インタビュイーや読者と共に考えようとする『ニューQ』という雑誌の姿勢がよく表れているなと感じました。
今井:先程もお話ししたように、『ニューQ』のインタビューを通して私たちが得たいのは答えではなく、インタビュイーが何かについて「わかっていく」、あるいは「わからなくなっていく」ことを共に楽しむ感覚です。そして紙面を通して、読者にもその感覚を味わってもらいたい。ですから、「いいですよ、ゆっくり」のような言葉も残しています。
中里さんはエレガンスについて常日頃考えていらっしゃる方ですが、完璧な答えを持っているわけではないんですよね。だから、取材の中で答えに詰まることもある。インタビュイーがずっと考え続けているけど、まだうまく言語化しきれていないことを聞くのが面白いんですよ。
「馬やイルカにはエレガンスがある」と中里さんが言ったら、私たちが「じゃあ、これはどうですか」と聞き、「いや、それはエレガンスではない」と。そうやって、みんなでああでもないこうでもないと対話して、徐々にインタビュイーが言語化できていない考えの輪郭を掴んでいく。
そういう意味では、梶谷先生にお願いしてよかったなと思っています。とにかく人の話を聞くのが大好きな方なので、「これとこれはどう違うの?」と梶谷先生の方から私たちにも問いを投げかけてくれる。そうした対話の中から、中里さんの中にある「答えめいたもの」の手触りを感じられることができましたし、それを「答えだと思う理由」も解きほぐすことができました。
「答えがない」に逃げてはいけない
──『ニューQ』を読んで、思考の結果ではなくプロセスを読者に共有したいという意図を強く感じていたのですが、「言語化できていない考えを共に掴みにいく」感覚をシェアする意図があったのですね。
今井:ただ、誤解してほしくないのが、決して「答えがない」と思っているわけではないということ。私は「エレガンス」にも答えがあると思っています。中里さんも何らかの答えを捕まえているはずで、だから一緒にその答えの輪郭に触れるために、対話をするんです。
明確な答えを出すことが目的ではないですが、あくまでも「答えがあること」を前提に問いを立てることが重要なのではないかと思っています。「答えがない」と思うことは、「考えても仕方がない」「自分が考えることではない」といった考えに結びつく可能性がある。「どうせ答えはないのだから」とあぐらをかいてはいけない。「答えがないこと」を言い訳にしてはいけないと思うんです。
──「答えがあること」を前提に、少しでもそれに近づくために、対話を続けているのだと。「答えではなく問いを求める」というコンセプトは、「答えのないことこそ至高だ」というロマンティシズムとはまったくの別物だと感じました。
今井:捕まえた瞬間に逃げていくから「これが結論です」と言い切れるものはないかもしれないですが、「確かに」と思える暫定解を出すことはできるはず。
暫定解を出せる可能性があるからこそ、問いを立て、対話を繰り返しているんです。「答えはないけど、考え続ける」なんて、やってられないじゃないですか(笑)。
瀬尾:雑誌づくりを通して、少なくとも問いに対する答えの解像度が上がっている感覚はありますね。でも、今井さんが言ったように答えは「捕まえた瞬間に逃げていく」ものなので、10年後に同じテーマで雑誌をつくると、中身は全く違ったものになるような気はしています。
雑誌は、コンテクストの中での「暫定解」を示しやすいメディア
──でも、対話を続けることを重視するなら、なぜ雑誌にしたのでしょうか? プロセスごと丁寧に共有するなら、紙幅の制限がないWebメディアの方が適しているのではないかな、とも思ったのですが。
今井:紙媒体の方が「答えの輪郭を掴みにいく」というスタンスに適しているような気がするからです。
発売日を決めてしまうと、印刷などの工程も経なければならないため、絶対的なデッドラインができる。明確な「終わり」があるからこそ、そこまでになんとか暫定解をひねり出そうと最善を尽くせるんです。
もちろん、「何でもいいから答えを出す」ことが『ニューQ』の目的ではないので、悩んでいることに関しては「悩んでいる」とそのまま出すようにしています。解を出すことに比重を置きすぎると、いい加減な答えになってしまう可能性がありますから。でも、何かを問うとき、完璧なものではないとしても、答えを出そうとするスタンスは崩してはいけないと思います。
瀬尾:それから、雑誌のほうが個々の記事を通してコンテクストを共有しやすいと感じています。「エレガンス」という号が持つ大きなテーマがまずあって、それを個々の記事を通してさまざまな角度から考えていく。こうした、コンセプトに紐づく思考を、号という概念を持っている雑誌のほうがWebメディアより伝えやすいと感じています。
たとえ、Webメディアの中で「エレガンス特集」としていくつかの記事を制作しても、それぞれの記事単体でアクセスできてしまうので、雑誌に比べると特集の全体感が見えづらくなる気がします。「エレガンス」というテーマと各記事との“距離”が、離れていくような気がするんですよね。
今井:制作陣としても、号という枠組みがあるからこそ、一貫性が生まれる。制作途中はさまざまなことを考えるわけですが「あ、いま作っているのは『エレガンス号』だったな」と立ち戻れるというか。「何でもOK」だと、とっ散らかってしまう。
──コンテクストの中で問いに対する暫定解を出し、届けていくにあたって、雑誌というフォーマットが適しているのですね。
瀬尾:そうですね。そうやって「答えそのもの」よりも、まだ生煮えであっても考えるプロセスに価値をおくことこそ重要だと思っています。
というのは、多くの人が、答えを外部に求めすぎているのではないかと思うんです。ビジネス書などを読むと、たとえば「パーパス設計はこうあるべき」といった答え、解法のようなものが並んでいますよね。でも、本当の答えは、主体的な思考や経験、他者との対話の結果として存在すべきだと考えています。
今井:「答えようとする」プロセスの楽しさを、多くの方々と共有したいと思っているんです。
「いい問い」のもとにこそ、人は集まる
瀬尾:「答えようとする」プロセスを続けるためには、いい問いが必要なんですけれど、ただ、「いい問い」とは何でしょうね。たとえば「生きるとは?」といった、万人が聞いてわかりやすい問いが「いい問い」という気もしてくるのですが、本当の「いい問い」ってそんなにわかりやすいものではないような気がするんです。
さらに言えば、実践が伴っているがゆえに「わかりやすい問い」に感じているだけの場合もあると思っていて。どういうことかと言うと、たとえばAmazon.comはその内容の善し悪しは別として、「ユーザーファーストを突き詰めた先にあるビジネスモデルとは」という問いに対する答えとして、いまのビジネスを展開している気がするんです。そのビジネスの中身をみんなが知っているから、「ユーザーファーストを突き詰めた先にあるビジネスモデルとは」が「わかりやすい問い」になる。でも、その実践を知らなければ、わかりづらいと思うんです。
今井:いま瀬尾さんが言ったAmazon.comの例のように、事業をつくるということは、何かしらの問いに対して答えていく作業だと思うのですが、その問いが明確になっていないことも少なくない。そこに、哲学の介在価値があるんです。「この行為は、何に回答することになるのだろう」という視点で行為を捉え直すことが、哲学に求められている気がします。
私たちはブランディングなどに関するコンサルティングサービスも提供しているのですが、さまざまな企業と仕事をさせてもらう中で感じているのは、「いい問い」のもとにこそ、人は集まるということ。やはり回答したくなりますから。組織には「いい問い」が必要なのだと思います。
「答え」は分断し、「問い」は統合する
柏原(XD編集部):お話を聞いていて、「答え」は人々を分断するものなのかもしれない、と思いました。対して、「問い」は統合する。人々に対話を促す機能があるからです。
とはいえ「問い」に「答えなんてない」となってしまうと、それはそれで統合できなくなってしまう。「何もないなら、何をやってもいいじゃないか」と、行き過ぎた発想が生まれてしまいますから。「問いに答えを見つける」という共通目的があるからこそ、人は対話をするし、その必要性が生まれるのではないでしょうか。
瀬尾:昔よく開催していたデザイン思考のワークショップで、参加者たちの議論がうまく深まらないことが少なからずあったんです。
いまの柏原さんの言葉を聞いていて思ったのですが、議論がうまく進まなかった理由は、参加者が「アイデアを出すこと」にフォーカスしていたからではないかと思ったんですよね。「アイデア」にフォーカスすると、議論がバラバラになっていく感覚があった。でも、「問いを立てること」に焦点を当てると、議論がまとまりやすかったような気がします。
柏原(XD編集部):「アイデア」にフォーカスしすぎるあまり、議論がまとまらないという問題は、僕たちの会社の中にもあると思っています。いま会社の社員数は200人くらいなのですが、それくらいの規模になると、どうしてもみんなで同じ方法を向くのがそれなりに大変になってきます。
今一度「僕たちはどんな『問い』に向き合っているのか」について考えなければいけないような気がしているんです。そういった意味で、弊社にも哲学的な思考や態度が必要なのかもしれません。
石塚(プレイド):私はプレイドでの仕事の他にも一般社団法人 公共とデザインの共同代表を務めているのですが、その活動の中でも、同じ問いを考えているつもりだったのに、気づいてみるとそれぞれがまったく別のものに向き合ってしまっている場面があると感じていて。
たとえば、「いま公共に求められているものは何か」という問いについて、さまざまなバックグラウンドを持つ方々とディスカッションしていてもなかなか噛み合わず、喧嘩みたいになってしまうこともある。「公共」といっても、それぞれが違うものを見てしまっているんだと思うんですよね。
「いい問い」とは、「全員がもう一度同じことを考えられるようにする問い」なのかもしれないと思いました。
瀬尾:そうですね。哲学対話は、WhatやWhyといった形をとるような、たとえば「私たちが話し合っている概念って、そもそもどんなものなのだろう。それってなぜだろう?」ということから始まる。
「公共とは」といった問いを考えるには、まずその場における「公共」の定義をそろえなければなりませんし、哲学対話にはそういった「定義をそろえる」といった、問いを考えるための作業も含まれます。そうして考えていった結果、「どうすべきか」や先ほどのお話だと「何が求められているのか?」という議論が、ようやく見えてくるのだと思います。
今井:対話では、「ああでもないこうでもない」と言いながら、みんなが「なるほど」思える理由を探していく。そういったプロセスを経るのと経ないのでは、最終的にHowを決めたときに納得できるかどうかが大きく変わると思うんです。哲学的なプロセスを踏むメリットはそこにあると思います。
瀬尾:またそういった対話の過程では、相手を内在化させることも必要になる。相手の言葉を聞きながら「なぜ、この人はこういったことに興味があるのだろう」といったことに考えを巡らせて、自分とは違う人の立場で考えてみる必要が出てきます。
「答えようとする」場からこそ、企業文化は生まれる
──みんなにとって納得感がある答えを出すためにも、「問いを立てる」ための対話をすることが重要だと。
瀬尾:組織として、自分たちの営みの根底をなす概念に向き合うことはとても大事だと思うんです。当たり前になりすぎてちゃんと議論ができていないことって、意外に多いのではないかと思っていて。雑誌などの「編集」もそういったワードの一つかもしれませんが、そういえば自分たちもけっこう「編集」について話すことが多いですね。「デザイン」をちゃんと考えている組織は、やはりいいデザインを生み出しているとも感じます。
柏原(XD編集部):過程があるからこそ、本当の「答え」になるのだと思います。会社でも、たとえば他社がやっている何かしらの施策をそのまま実施してみても、うまく機能することは少ない。対話を重ね、議論を繰り返した結果として得た答えだからこそ、活きるわけですよね。
もちろん、時間に限りはあるので、外からやってきた答えに飛びついてしまいたくなるときもあるのですが、やはり対話や議論を尽くして結論を出したほうがいい。企業にはそういったプロセスをサポートする“哲学者”が必要なのかもしれないですね。
今井:自分たちの外側にある答えらしきものに飛びつこうとするのも、「答えが出ないなら、何でもいいから行動しろ」と指示を出すのも、「答えようとする」プロセスをすっ飛ばしてしまっているんですよね。みんなで「答えようとする」場からこそ、会社の文化は生まれるはずなのに。
瀬尾:答えようとする「問い」は、あらゆる個人的な経験や感覚、感情から立ち上げることができます。問いを立てるワークショップでは、日常で不安に感じたことといった個人的な問題と社会の接点を見出し、みんなで向き合うべき「問い」にしているんです。そうすることで、個人の中で閉じていた問題が、みんなで話し合える「問い」になる。
今井:私は一人で考えるのが苦手なんです。だからこそ、みんなでいろいろなことについて考えたいと思っていますし、そういう意味で哲学対話という方法は自分に合っていると思いますね。
聞き手/小池真幸、石塚理華、柏原勤 執筆/鷲尾諒太郎 撮影/須古恵 編集/小池真幸