普段生活する中で直面するさまざまなルール。明確に表記された道路標識から、満員電車ではリュックを前に抱えるといった暗黙の慣習まで、社会はルールに形づくられ、私たちは日々その中で日常を過ごしている。当然従うべきものとして存在しているルールの中で、どのような遊びが現実的で、一体どのように遊べば楽しいのだろう?
コグニティブデザイナー・菅俊一さんと、遊びについて綴られた名著『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』の訳者である美学者・松永伸司さんに、「遊びとルールの関係性」について言葉を交わしてもらった。
(この記事は2023年7月20日(木)に発売された『XD MAGAZINE VOL.07』より転載しています)
はみだす? ギリギリを攻める?
対談を始める前に、お二人の活動について補足したい。まず、菅俊一さんは、人間の知覚能力にもとづいた「コグニティブデザイン」を軸としながら、問題設計や新しい表現に取り組むデザイナーであり、著書『観察の練習』・『まなざし』の中では、電車の中や書店など、生活の場面で見つけた小さな違和感を分解し、自身の考えと合わせてその思考プロセスを記録している。
続いて、松永伸司さん。美学を専門とした研究者であり、題材は主にテレビゲーム。著書『ビデオゲームの美学』では、従来芸術として捉えられることのなかったテレビゲームを“行為の芸術”と捉え直し、さまざまな作品を哲学的に解読している。さらに、お二人は大学で教鞭を執っているという共通点もある。
今回の対談では、ルールとポジティブに向き合う展示を実現した菅さんと、広義の「遊び」に焦点を当てた書籍の翻訳を手がけ、自身もテレビゲームを通して遊びを研究する松永さんのお二人に、ルールと遊びの視点で話し合っていただいた。ルールにならってみたり、時にそこから外れてみたりすることで、どのような遊びが生まれ得るのかについて、二人の言葉からヒントを得ていきたい。
菅「テレビゲームでいえば、例えばあえてアイテムを使わないとか、装備をレベルアップさせないとか、制限を加えてプレイする“縛りプレイ”ってあるじゃないですか。あれは松永さんの目にどう映ってるんですか?」
松永「縛られた方が嬉しいからやっているんだと思います。そうやってルールをつくった方が楽しいから、ということですね。個人的に遊びというものは飽きるものだと思っていて。プレイヤー自らがテレビゲーム内のルールに飽きて、自分でルールをつくり出して、テレビゲームの本筋とはまた違うゲームを始めているというか」
菅「そうした方が楽しいから、というのは至ってシンプルですね」
松永「テレビゲームにおけるルールは、あくまでもコントローラーとアクションが紐づいていることだけです。現実世界でものを持ち上げて、手を離すと重力で下に落ちますよね。それと同じように、コントローラーのXボタンを押せばジャンプする、といった法則だけが基本的に破れないルール。翻ば、それ以外のルールは破れるんです。なので、最初はキャラクターを動かすだけで楽しかったのに、徐々に操作が習熟し出すと、それだけでは物足りなくなってきて自らルールを生み出して遊び始める、ということだと思います」
菅「規範は置いておいて、テレビゲームは自由に遊べる余地が残されているから、“縛りプレイ”のような現象が出てくるんですね。ぼくも大学の授業課題を出すとき、ルールや制約の設定がすごく面白いなと思っていて。ちょうど今実施している課題があるのですが、こんな制約で成果物を用意してもらうんです。
・用紙はA4サイズ
・撮影した写真は見開きに1枚だけ使用する
・プリントした用紙の長辺を谷折りにする
この条件をもとに自由につくってもらうと、半分に折った1枚の写真がただの写真ではなく、その構造に紐づいたアイデアの成果物として上がってくるんです。例えば、写真を右手で持って左手で開く動きをパーティークラッカーを鳴らす動きになぞらえたり、キャンディーの封を開ける仕草に見立てたり」
松永「面白いですね」
菅「まさに紙を折る瞬間を模した写真がプリントされた作品もあるんですけど、先ほどの成果物が紙を開く『動き』に注目しているのに対して、制約のひとつである『折り目』に注目してつくられているんです。制約そのものをモチーフにするあたりに、制約に揺らぎを与えてやろうという意思を感じますよね(笑)。課題を出したときには、誰かしらがこうやって制約をメタに解釈して形にしてくることが多くて、毎回感心します。何か制約があるとその境界を探りたくなってしまうのかもしれないですね」
松永「この課題は紙に制約を加えていますが、美術における絵画にも同じような制約がありますよね。描くモチーフや題材は自由でも、一応キャンバスを使わないといけない、絵の具をのせないといけない。もちろんその制約を破る人もいますが、それは絵画というメディウム(媒体)の前提があってのアイデアで、フォーマットがあるからこそ、制約を破ったことに意味が出てくる、みたいな。制約があることで、自分が勝負する範囲が非常にはっきりするし、人にも伝わりやすくなるんだと思います」
寿司トッツォのクリエイティビティ
菅「ちょっと本筋から離れちゃうかもしれないですけど、日本ってなんでもラテにするじゃないですか。まず元祖としてカフェオレがあるのは分かるけど、豆乳ラテ、抹茶ラテとか」
松永「ありますね。言葉の用法的に合ってるのかな、みたいな商品」
菅「あとマリトッツォが流行したときも、そもそもパンに大量のクリームを挟んだもののはずなのに、トマトで挟めばトマトッツォ、シャリでネタを挟めば寿司トッツォ……。輸入してきた概念をすぐに分解して入れ替えて売るみたいな。あれって日本特有な気がするんですけど、どうなんでしょう」
松永「たぶん、マリトッツォの本国ではもう分解不可能なパターンとして『マリトッツォはパンにクリームを挟んだお菓子』で認識されてるじゃないですか。でも日本に入ってきたときはマリトッツォの意味も知らないし、単語とそのフォルムしか分からない。だから、ある程度抽象的に『クリームのような何かを上下から挟んだ、丸いフォルムの食べ物』=マリトッツォというユニットとして捉えているからこそ、分解できるのかもしれないですね。ライスバーガーとかもそうですよね、おにぎりやんけっていう」
菅「なるほど。日本だと『おはぎ』は『寿司はぎ』として売られることはないですもんね。『おはぎ』を部分的に分解しようなんて思うことはあまりない」
松永「でも寿司トッツォみたいな現象がまさにクリエイティブということだと思うんですよ。どこかの国のものが輸出されたときに、本国では分解不可能なパターンなのに、何かしら分解可能なユニットなんだろうと思われて、そこに多少の誤解も相まって細分化され、思いもよらなかったものが生まれる。そんなふうにして新しいものが生まれる流れは、歴史的に見てもよくあるように思いますね」
菅「日本のクリエイションの一端でもある気がしますね。でも、アメリカのハンバーガーチェーンで『肉を肉で挟んだ、パン不在のバーガー』が発売されたニュースを聞いたときに『本国でもそのアイデア生まれるんだ』みたいな驚きはありました(笑)」
遊びではなく、遊び心を
菅「きっと、アイデアって無から何かをつくり出すよりも、あるフォーマットの上で、制約の中で生まれていく方が多いと思います」
松永「『プレイ・マターズ』の著者のシカールも『遊びとは逸脱すること』と綴っていて。いかに与えられたものからはみ出すか、という態度を『遊び心』と呼んでいるんです。それは『遊び』そのものとは区別されて、『遊びの特性を遊びではない活動に投影すること』と続けています。菅さんの課題も、遊んでほしいとは思いつつも真面目には取り組んでほしいわけじゃないですか」
菅「そうですね。この課題をやる上では真面目に格闘してほしいと思っていますが、確かに遊んでほしいというよりは、遊び心を意識してほしいという言葉の方が近いかもしれません」
松永「遊んでください、って制約を設けるのもまた違うじゃないですか。あくまでも遊びは自主性から生まれるもので、強いられるものではない。遊び心を発揮するっていう状況を設計する側がお膳立てし過ぎると、台無しというか、遊びではなくなってしまいますもんね。ルールといった社会の境界線を逸脱したり、更新していく上で「遊び心」は良いアプローチにつながる気がします」
菅「適度に寄り道できる余地があるかは、課題を設計するときに意識しますね。でも、さっきみたいな課題を4年間繰り返してきた後、卒業制作は自由なんです。テーマも自由、何をつくるかも自由。ほぼ制約のない荒野に放り出されるので、困惑する学生も多くて。自分なりに問いを立ててそれにちゃんと自分で答えるっていう。その一連の作業を自発的にやらないといけないんですよ」
松永「卒業論文もそうですね。菅さんはそういう学生にどうサポートしていくんですか?」
菅「最近何を面白いと感じたかとか、いろいろ話しながら自分で気づいてもらえるように話を聞いてますね。あれ読んで、これ観てとか伝えると、変に方向づけしてしまうことにもなるので」
松永「難しいところですよね、それは。でもぼくは最近一周回って権威的な先生がいろいろ押し付けてくる、みたいなアプローチもむしろいいんじゃないかなと感じてきて。そんなことされたら、みんな嫌じゃないですか。だから、それに反発する形で自分なりのやり方を見つけるんじゃないかって(笑)」
菅「何か言われて、それに対して自分がどう思うか、という反応を引き出しやすいのはありますね」
松永「少し話がそれるかもしれませんが、最近のテレビゲームの技術でメタAIというものがあって。ざっくりいうと、メタAIはプレイヤーの動きを全て裏で観察するんです。どのタイミングで間違ったかとか、プレイヤーがどれだけ退屈しているかとか。
そこでメタAIはプレイヤーに離脱されないように、敵を大量に出して緊張を持続させたり、下手過ぎるから敵を弱体化したり、ゲームの難易度を調整するんです。これっていわば、上手な接待なわけですよ。このAIがあれば、プレイヤーは緊張を保ったままほどよい難易度でプレイできますが、ちょっと気持ち悪いですよね。つまり、『あなたはそのままのあなたでいいですよ』と褒め続けられているような感覚というか。
それよりも、なかなか倒せないボス戦に向けてレベルを上げてみようとか、戦い方を変えてみようとか、自己変容を求められる方が人間らしいというか。自分が変わる、というのは人間として生きる上での重要なポイントだと思うんです」
菅「教育の現場だと、その自己変容を促す設計が難しいですよね。あまりに全然ダメだね、と言い過ぎても自己変容の機会を失わせる気もするし、そこで未来を閉ざしてしまう可能性もある。でも褒められて満足して終わり、も良くない。学生が展示するときって、その矢面に立たせられてる状況だと思うんですよね。場所を用意して、名前を出しながら自分の作品も出す、みたいな」
松永「怖い!」
菅「ですよね。丹精込めてつくった作品が、その場で批評されたりするわけですよ。でもそこで批評された言葉を受けて、ちょっと自分のやり方を変えてみる。そういう正しく凹む経験は大事だと思いますね。単純に遊びでつくっていたら、正しくは凹めないと思うので」
松永「大人になるにつれて、そういう自己変容の機会が減っていきますよね。だからこそ、ビジネスの文脈では自分で遊び心を持って仕事に取り組んでみよう、新しい何かにチャレンジしてみよう、といった『遊び』が話題に上がるんでしょうね。でも遊びは自発的なものなので、そのヒントも自分で見つけるしかないんじゃないでしょうか」
菅「ヒントではないですが、居酒屋とかでおすすめのメニューってあるじゃないですか。かた焼きそばが美味しいと有名です、みたいな。それを避けてみるのは遊び心に近いのかなと思います。あと、帰宅するときに毎日違う道を通って帰る、とか。予定調和からちょっと外れてみようという気持ちがまさに『遊び心』だと思うので」
松永「とにかく楽に流されないことは、遊び心に近いのかもしれないです。日常の縛りプレイですね」
取材・文/梶谷勇介 写真/西田香織
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