「何事にも遊び心が必要だ」とか「よく学び、よく遊べ」とか。“遊び”は、前向きな意味で使われる機会が多い言葉だ。一方で「遊びじゃないんだから」「やることをやってから遊びなさい」などと、不真面目さを戒めるネガティブな意味を宿されることも少なくない。実のところ“遊び”の正体とは何か? 仕事や生活やクリエイティブにとって、本当に必要なのか? だとしたら、なぜ必要なのか? これらの問いへのヒントを探るべく、東京学芸大学の理事・副学長で「遊び学」と銘打つ研究を続けている松田恵示さんの部屋を訪ねた。
(この記事は2023年7月20日(木)に発売された『XD MAGAZINE VOL.07』より転載しています)
遊び続けた先に、ステーキが生まれた
ゲーム、トランプ、けん玉、麻雀——。こうした個別の遊びが松田恵示副学長の「遊び学」の研究対象ではない。
松田さん「『人生には遊びが必要だ』といった場合、別にゲームやトランプを薦めているわけじゃないですよね。たいてい余白や余裕、あるいは夢中になれることのメタファーに“遊び”の言葉を用いる。私が手がける遊び学とは、そうした理念としての遊びを探りながら、遊びを通して社会や文化、人間を探っているんですよ」
そもそも松田副学長が遊び学を志したきっかけは、小学校の頃にさかのぼる。放課後、校庭で友だちと遊んでいると、帰宅時間が遅くなった。「午後5時には帰るように」と言う父にいつも怒られたという。それでもやはり翌日も夢中で遊んでしまい、午後5時を過ぎて、怒られ続けた。
松田さん「『勉強は続けるのが嫌なのに、どうして遊びにはそれほどまでの吸引力があるのか?』と子どもながらに引っかかっていたんです。遊びって不真面目なものだといわれるくせにやたらと人をひきつける、力が強い。大人でもありますよね。仕事の会合には、まったく行きたくないのに、麻雀の約束は是が非でも守りたくなる」
この“遊びの見えざる手”の謎を解明すれば、学習意欲や労働意欲を向上させる力に生かせそうだ。遊び学とは、そんな遊びのリフレーミングによって、教育やビジネスに役立てる学問に思えてくる。けれども「遊びの価値は、有益さだけでおさまるものじゃない」と松田副学長は否定する。
松田さん「遊びの価値って、ただただ“面白い”ことに尽きるんですよ。面白いから夢中になる。夢中になるからいろんな試行錯誤を勝手にし始める。そうやって人間は文化や文明をつくり、発展させてきたんですからね」
遊びの“面白さ”が、文化や文明をつくる。それは遊びを長く研究してきた先人、ヨハン・ホイジンガが著書『ホモ・ルーデンス』で示した言説だという。
松田さん「例えば、世界中の人々が『肉を加熱する』調理法を当たり前に実践しています。一般的にそれは先人の知恵だといわれる。けれど、そもそも原始の時代、最初に肉を焼いた人間は、衛生面も美味しさも考えてなかったと思う。『火に肉を近づけてみたら、どうなるのかな?』と生肉をあぶり出してみた。するとパチパチと音がたって、焦げもついて楽しい。そして何度も肉を焦がしたりしながら、食べてみたら“こうすると美味しいぞ”と気づいた。ホイジンガならこういった。そう考える方がリアルですよね」
私たち人間は、何か目的があって、その手段のために知識を積み重ねて文化や文明を築いてきたように思いがちだ。しかし、実際は“面白い”が先にある。好奇心に動かされて無邪気に遊ぶ中、偶然、新たな知識や知恵を積み重ねていく。遊びから、新たな文化や文明が生まれ、伝承されていくわけだ。
木登りする子どもは、最初から「筋肉を鍛えよう」と思って登るのではない。ただ楽しく木に登っているうち、結果として身体能力が高まる。
松田さん「裏を返せば、遊びがなくなったら文化がなくなるともいえる。遊びって、それくらい大きな原動力。全ての物事が遊びから生まれているといってもいい」
「日本企業からイノベーションが生まれづらくなった」とよく言われる。確かに、かつてほどには日本発の斬新なビジネスモデルや、世界を席巻するようなプロダクトが目立たなくなった。その原因は「遊び」がなくなったからかもしれない。好奇心に動かされて、あれこれと試行錯誤する、遊びという動機づけが足りなくなっているとしたら、腑に落ちる。
松田さん「日本に遊びが少なくなっている理由は何かといえば、“可逆性”が足りなくなっていることにある気がします」
ママゴトと量子コンピュータの類似性
可逆性とは、いずれかに偏ることなく、いつでももとの状態に戻れる性質のこと。AでもありBでもある状態、表でも裏でもどっちにでもなる状態のことだ。松田副学長によれば、遊びを遊びとして成り立たせる必要条件は、この可逆性だという。
松田さん「ママゴトやごっこ遊びが分かりやすい。お母さん役の子は、本当にお母さんになるのではなく、子どもの自分でありながらお母さんを演じるわけですよね。『ごはんですよ』と子ども役の子に手渡すけれど、それは泥団子だったりする。それなのに『キミはお母さんじゃないだろう!』と怒り始めたら楽しめないし、『いただきます!』と本気で泥団子を頬張り始めたら、引いてしまうでしょ。どちらかに偏らない、ある種あいまいな可逆性があるから、ママゴトは楽しめるんです」
だから真面目過ぎる人は、どんな遊びでも没頭しづらい。言い換えると、新しい挑戦や試行錯誤にいたる好奇心や没入感が発動しづらいのだ。
今の日本は、真面目過ぎるのかもしれない。右か左か。白か黒か。メディア上でもSNSでも、極端な答えこそが支持され、目立つようになった。寛容さが後ろに追いやられ、あいまいさを許さないようにすら感じる。「AでもありBでもある」ような、可逆性の肩身が狭いのだ。
可逆性がなければ、遊びは機能しない。遊びがなければ、新しい文化もビジネスも芽生え、育たない。
松田さん「そして社会が停滞する。あくまで仮説ですが、それは昨今注目されている量子コンピュータのしくみを紐解いても、可逆性の重要性は垣間見れる」
量子コンピュータは、0か1かの反復で情報処理する従来型のコンピュータとは異なり、0でもあり1でもある、0と1が重なったあいまいな状態も含めて情報処理するものだ。非合理的なように見えて、あいまいさを含んだ方がより高速で、緻密な計算ができるといわれている。またそれは私たち人間の脳の処理スタイルに極めて近いことでも知られている。
松田さん「だから我々は泥団子を見て、とっさに『いただきます!』と、食べたフリするような、高度な判断が本来できるんでしょう。遊べるということは、量子コンピュータの力学と同じように高度に物事が計算できているってことなのかもしれません」
“分からなさ”と向き合おう
では、一体どうすれば、私たちは遊びを取り戻せるのか。「異質なものに触れ合うことでしょうね」と松田副学長は言う。
例えば、「事前に調べ過ぎないまま、見知らぬ場所へ旅に出る」、「入ったことのない飲食店に足を運び、常連客と話してみる」、「普段触れないアート作品をあえて鑑賞して、あれこれと思いを巡らせる」といった具合だ。
松田さん「『渦に巻き込まれる』と私は呼んでいますが、知らない場所、分からない人に触れると、自分でも認識していなかった自分に出合える。それまでなかった“面白い”感情が突如、湧き立つことがありますからね。頭で考えるのではなく、身体を動かして先に感じてしまえばいいんです。身体って自分のものなのに、自分こそ知らなかったりする。熱が出たりすると原因が分からなくて病院で『先生、どこが悪いんでしょうか?』って聞きますよね。自分の身体は分かるものであり、分からないものである、可逆性の象徴でもあるから」
加えて、分からないこと、知らないことに出合うと、あれこれ考えざるを得なくなる。正解が見えないからこそ、思考を巡らせる。当たり前じゃない発想やアイデアにも結びつきそうな上、変化や成長をし続ける持続性も育まれそうだ。
遊ぶのが苦手。好きなものも見当たらない。そんなふうに考えているなら、なおさら今いる場所から少しだけ飛び出し、渦に巻き込まれてみてはどうだろう?
取材・文/箱田高樹 写真/田巻海
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