美学と身体性をテーマにした考察で知られる伊藤亜紗さん。現在、特にスポーツをテーマとした取り組みに力を入れている。視覚障害者の方々にスポーツの臨場感を伝えることを目的にはじまった協同研究は、競技の本質を抽出し、身近な日用品を使いながら、競技以外の動きに置き換えて伝え直すプロセスとして結実した。他者との交流のなかで、視点を変え、今までにない価値観を見出すことで、自分自身を更新していく。経験を通して身につける“学び”のヒントを得るべく、伊藤さんに話を伺った。
(この記事は2021年9月21日(火)に発売された『XD MAGAZINE VOL.02』より転載しており、記事の内容は取材当時のものです)

伊藤亜紗
東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。リベラルアーツ研究教育院教授。東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース教授。専門は、美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次に文転。障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。主な著書に『手の倫理』(講談社、2020年)、『記憶する体』(春秋社。 2019年)、『どもる体』(医学書院、2018年)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社、2016年)。
文系/理系の壁を越えた学びの場
昼間のうだるような暑さが遠のき、ぬるい風がゆっくりと東京工業大学の正門を通っていく、 7月のある夕暮れどき。眺めのいいビルの8階にある研究室の前で待っていると、伊藤亜紗さんが荷物を手で抱えながらやってきた。「遅くなってすみません、今部屋開けますね」。通されたのは、研究室とは別の会議室だった。会議室といっても畳の小あがりやカウンターがあって、心地のいい空間だ。聞けば、伊藤さんがセンター長を務める「未来の人類研究センター」のために用意されたスペースなのだという。
伊藤さんは東工大のリベラルアーツ研究教育院教授として、美学を軸にアート、身体、哲学を横断的に研究している気鋭の学者だ。「未来の人類研究センター」はリベラルアーツ研究を推進するため2020年2月に創設された組織で、文系/理系や理論/現場といった壁を超えて様々な知が出会う場を提供している。部屋が真新しいのは、完成してまもなくコロナの感染が拡大し、いまだに活用できていないからだ。
「今日は制作の授業の作品発表だったんです」と席に着いた伊藤さんが口をひらく。

伊藤さん「〈ドラえもんのひみつ道具を実装する〉という課題で、学生はそれぞれ道具をひとつ選び、そのアイテムが叶える本質は何なのかを分析するんです。『実装する』といっても、見た目をそのまま再現するわけではなく、その道具が叶えている価値を抽象化して別のかたちで実現させることを目指します。だからアウトプットはゲームでもいいし、サービスでもいい。
同じ道具でも人によって見出す本質は様々です。たとえば、どこでもドア。シンプルに考えれば、その本質は『時間的・空間的な制約を超えること』かもしれませんが、『身体からの解放』や『新しい“くぐり抜け”の経験』とも考えられる。同じ対象でもいろいろ分析が可能なんです」
モノゴトの本質を捉えるために必要な「抽象化」のスキル
対象をよく分析し、その本質を捉えること。対象を抽象化させること。これは「学び」とは何かを考えるうえでも重要なプロセスだろう。ひとつのモノゴトの本質を捉え、抽象化させておくことができれば、未知のモノゴトに出会ったときにもアナロジー(類推)として考えられるからだ。
〈ドラえもんのひみつ道具を実装する〉課題で学生がたどるプロセスを、伊藤さんは自身が携わる研究でも実際に取り入れている。研究過程が書籍化してまとまった『見えないスポーツ図鑑』(晶文社、2020年)もその一例である。東工大とNTTが共同で行っている、スポーツ観戦の新しい方法を探るこのプロジェクトで、伊藤さんは、触覚情報学が専門の渡邊淳司さんと人間中心設計の専門家である林阿希子さんとともに、卓球やサッカー、柔道など10種目を、鍋蓋やキッチンペーパーといった身近にある道具を使って“翻訳”していった。

『見えないスポーツ図鑑』で卓球の翻訳を試みている場面。
伊藤さん「10種目の専門家に、それぞれの競技の体感を聞いていくのは楽しかったですね。本の帯に『研究ドキュメンタリー』と書かれているんですけど、論文だったら絶対書かれない試行錯誤が記録されている(笑)。やっぱりプロセスが面白いんですよね」
元々この研究の目標は、目の見えない人のための新しいスポーツの観戦方法を開発することにあった。しかし競技経験者や専門家とやりとりするなかで、伊藤さんたちは、目に見えている人にとってもスポーツの体感は「見えていない」ことに気づき、プロジェクトの重心を、「そもそも目では捉えられないスポーツの本質」を擬似体験できるよう別のかたちに翻訳することへシフトさせていった。結果は、参加者の誰もが想像しなかったところへ着地した。卓球のボールの回転は鍋ぶたとスリッパに、ラグビーの体感はキッチンペーパーとビニール紐に翻訳された。
伊藤さん「見た目が似ている必要はないんです。その言葉や体験によって与えられる効果が同じであればいい。そうした翻訳をするためにも、自分なりに解釈し抽象化したうえで、別のかたちに落とす作業が必要です。即物的につなげるだけだと、ひみつ道具の課題と同じで、表面的な翻訳にしかなりません」
見た目が変わっても翻訳できるのは、別物と思われているもののなかにも共通点があるからだ。
伊藤さん「世界は違いに溢れていますが、翻訳はその違いを超えようとする試みなんです」

違いを超えたコミュニケーションをするには、モノゴトを抽象化して捉える必要がある。なるほど。けれども、具体的にはどうすればいいのだろうか。「抽象化」するのは、なんだか難しそうではないか。
伊藤さん「でも、他人に何かを伝えようとして伝わらないときに、みんなが普段やってることだと思うんです。たとえば、授業で学生たちに自分のいちばん好きな触覚の快楽を発表させると、『コーヒーミルで豆を引く感じ』とかいろんなことを言うんですけど、それだけ聞いてもよく意味はわからない。だから、どうやったらその快楽を他の感覚で言い換えられるかと尋ねていく。そうすると、段々わかってくるんです。コーヒーミルで豆を引く感じが好きだと聞くと、あのガリガリ感がいいのかなと思うじゃないですか。でも違ったんです。その学生は、『高圧洗浄機で壁を洗うとき』とか『リモコンでテレビをつけるとき』の感覚と言い換えたんです。一見全く違うんだけど、彼のなかでは、本質は同じだった。小さい労力で大きな変化が起こるというのが彼の快楽だったんです。本人もなぜ自分がコーヒーミルに惹かれるのかわからなかったのが、言い換えをしてみることで、その理由の本質がわかるようになった。抽象化というと認識のレベルを上げるイメージが強いですけど、伝わらないときに言い換えるのと同じで、共通部分を取り出すということなんです。
美術の授業でも基本的に、個別の作品よりも、バロックやルネサンスといった様式を教えています。そうすると作品をたくさん見ているうちに、共通項が見えてくるんです。様式のイメージが自分のなかにできれば、新しい作品を見たときに、バロックなのかルネサンスなのかを判別できる。抽象化した感覚は解釈ツールになって、展開可能性を生む。だから抽象化するのは、すごく大切な能力だと思います」

「正解」を目指す学習から、「先入観」を解きほぐしていく学びへ
学びは必ずしも一方的ではない。伊藤さんは教壇に立つ立場にあるが、学生のほうから学ぶことも多いのだという。ある日、芸術の授業を終えるとひとりの学生が近づいてきてこんな質問をした。「絵画はなぜ四角いんですか?」またコミュニケーションの授業をした際には、別の学生がいかにも不満そうに「どうして人間は言語を使うのか?」と尋ねてきた。
伊藤さん「難問ですよね。答えられないから、次の授業を使ってみんなで議論しました。そもそもで引っかかるので、スタート地点に立つまでが大変なんですよ(笑)。でも結局学ぶって、自分の思い込みを解きほぐしていくアンラーニング(学びほぐし)の作業なんですよね。特に大人になってからの学びは。自分は美学の専門家なので、絵画が四角いことや言語を使うことに対して何の疑いももたなくなっていたんですけど、学生たちと接することで先入観がほぐれていった。そうした先入観や思い込みを破壊していくのが学びなんだと思います」
学びほぐしとは、それまで詰め込んできた知識やその手前にある前提を問い直すこと。つまり、テストや受験でいい点数を取るための詰め込み型の勉強とは正反対の、“引いていく”学びである。だとすれば、当然、高校までの勉強とは異なる姿勢が求められる。「学ぶ=いい点数を取る」という意識から、まずは離れなければならない。
伊藤さん「数字から離れるということは、正解がない世界、評価基準がひとつではない世界にいくことだと思うんです。今はもう大学教育の現場では、教師が教壇の前に立って一方的に知識を教えていくような授業は推奨されていません。私の芸術の授業でも、学生はひたすら正解がないことをやっています。たとえば、ある絵を見せて、学生たちにその感想を聞く。最初はみんな、正解を当てにいこうとするんです。この絵を見て自分は何を思わなければいけないのかを探しているような感じで。それは、感想になっていない。でも、『それは自分の目で見てないよ』と発破をかけると、少しずつ自分で言葉を探しはじめるんです。
最初は『やばい』とか『刺さる』くらいしか言えないんですよ(笑)。反射神経的に出てくる普段の言葉と、知ってはいるけどすぐには出てこない言葉がある。最初は表層的な言葉でリアクションをするんだけど、だんだん深い階層にある言葉を探し当てようという感じになってくるんです。一旦言葉にすると、その言葉と感じたこととのズレがわかって、もっと正確な言葉を探すようにもなる。ボキャブラリーが滞留しはじめるんですね。それは感じることの訓練になる。正解があると思うと、感じなきゃいけないものは外部にあって、それを当てにいくという意識になりますよね。でも、本当に感じるというのは、自分のなかで起こっていることを観察して言語化することなんです。
授業ではそこを育てたいわけですよね。自分の感覚を言語化できるようになれば、どんな作品を見ても、どんな展覧会に行っても楽しめるようになる。だから授業でも、作家や作品の周辺情報は最低限しか教えません。少なくともそれらを覚えさせはしない。代わりに意識しているのは、身体的な感覚を育てることです。言ってみれば、人体改造ですね」
凝り固まった先入観や考え方をほぐしていく。すると身体性はおのずと変わる。学びとは、知識や情報を頭に詰め込むものではなく、自分自身をたえず変えていくこと。そして、その変化に身を委ねることなのだ。

「他人と話す前と後で自分が変わっていたい」
未来の人類研究センターや『見えないスポーツ図鑑』をはじめ、伊藤さんはこれまで、分野の異なる専門家たちが参加する共同プロジェクトに数多く関わってきた。共通言語をもたない人との活動を潤滑に進めるためには、どんな秘訣があるのだろうか。インタビューを元にした著作もある伊藤さんである。きっと傾聴する能力が高いに違いない。そう思って質問してみると、予想外の答えが返ってきた。
伊藤さん「傾聴はね、してないですね。トークイベントとか人前で話しているときでも、話を聞いてないって、よく言われるんですよ(笑)。わりと自分の興味をそのまま出していると思います。インタビューで取材する方に事前に質問を送ると、ちゃんと答えようと立派な作文を用意してくださる方もいるんです。でも、用意された内容を超えてもれてくるものをこちらとしては聴きたい。その人がなぜかつい喋ってしまうこととか、その場でふいに考えてしまったことを。だから、結構失礼な質問もしていると思います。
でも究極的には、喋っている内容は何でもいいんだと思うんですよね。伝わってくるものって、話の内容というより、もうちょっと全体的なもので……。だから専門分野が遠い人と話すのは楽しいですね。どこで話が合ってくるんだろうかと互いに探り合っているうちに、いつの間にか、予想もしなかったところにたどり着ける。その場のダイナミズムに身を任せて、生成的なコミュニケーションができるんです。だからきっと、私は人と話す前と後で自分が変わっていたいんですね」
何かを伝達しようとするのではなく、その場に自ら身を委ねること。そこでの変身を恐れないこと。長年の詰め込みによって凝り固まった思考や先入観をほぐしていくためにまず必要なのは、伊藤さんが体現するこうした姿勢なのかもしれない。

取材・文/平岩壮悟 写真/室岡小百合




