1日の終わりにリビングでビールサーバーのタップを倒すと、工場直送の生ビールがグラスに注がれる。一時的なレンタルではない。いつでも、そして定額で、だ――。
ビール好きにとっては夢のようなこのサブスクリプションサービスが、キリンビールの「Home Tap(ホームタップ)」だ。月額7,500円(税抜)で、工場から月2回届くペットボトルを自宅専用のビールサーバーにセットすれば、家にいながら簡単に生ビールを楽しむことができる。
2017年6月に同社が「New Beer Experience」として開始したこのサービスは、2017年秋からサーバーの改良のため1年にも渡り新規会員受付を休止していたにも関わらず、2019年4月の再開を前にプレ会員登録者数が1万人に近づくという人気ぶり。さらにその1万人の中から、順次抽選を経てようやく契約に至るという競争率だ。
これまで、ビールのような飲料品は顧客にとって「買って終わり」だった。それがいわゆるサブスクリプション型で提供されることは、顧客にとっては画期的な変化だろう。
なぜキリンはこのようなサービスの展開に踏み切ったのか。そして新たなビールの形であるホームタップの何が顧客を惹きつけるのか。キリンビールマーケティング本部寺島大智氏に話を伺った。
背水の陣から生まれた、「一番おいしい瞬間」を届ける挑戦
――最初に、ホームタップを始めた背景を教えてください
ホームタップの構想を描き始めた2013年頃は、5年連続マイナスが続き、業界の中で苦戦していた頃で、社内でも危機感がただよっていました。「今後10年、20年と生き残っていくためには、新しい何かに挑戦しなければいけない」と会社全体が焦り始めていた時期だったんです。
そんな中、新事業を立ち上げるに当たり、必ず取り入れたかったのが「お客様一人ひとりとつながることで、新たな価値を創造していく」という思想。これまでのキリンにはなかった考え方でした。
――前例のない新しいサービスは、社内ですぐに受け入れられたのでしょうか?
最初はやはり、ハードルが高かったです。ホームタップで課題だったのは、これまでに経験のない業務が多く発生すること。機械メーカーではない私たちが自社でビールサーバーや配送用のペットボトルを開発したり、工場で小さなボトルにビールを注ぐ作業をしたりと、多くの部署を巻き込まなければいけませんでした。また工場から各家庭への配送も前例がなかったため、「本当にできるのか」という声もありましたね。
一方で、経営者から現場まで会社全体が「変わらなければ」という危機感を持っていたことは追い風でした。工場でのオペレーションや商品開発、配送体制の整備。一つひとつの課題に対し、「どこまでできるのか」という範囲をみんなで話し合うことで、「自宅で新鮮な生ビール」が実現したんです。
――自宅でいつでもサーバーから新鮮なビールが飲めるというのは、ビール好きには嬉しいですよね。
「お客様とつながる」ことを考えたときに「私たちキリンビール社員だけが知っている一番おいしいビールをお届けしてお客様に喜んでいただきたい」とシンプルに思いました。
キリンビールに入社すると、最初に工場研修があります。研修の最後日に飲む、タンクから注がれるできたてのビールが一番おいしいということを、社員はみんな知っていたんです。
それをお客様にも味わっていただきたい。これがホームタップで私たちが実現しようとしたことです。「工場のタンクからお客様のグラスに注がれるまで」を一連の体験としてお届けしているつもりです。
売っているのは、「ホームタップのビールがある暮らし」
――ホームタップを提供する上で工夫したのはどのような部分でしょう?
「新鮮でおいしいビールをタンクから注いで飲める体験」を少しでも感じていただけるよう、ホームサーバーに保冷機能をつけ、ずっと冷えた状態で飲めるようにしました。また、ガスを入れ続けることで、ビールの劣化を防いでいます。そうすれば1回に飲む量が少ない方でも「ちょっとだけ飲んでまた翌日に」という楽しみ方ができますよね。自分の好きな量が飲めるのは強みだと思います。
提供頻度もお客様ご自身で調整できるようにしました。注文数は発送の4日前まで変更できます。「お急ぎ配送」という形で月に2回の基本スケジュール以外でも注文を受け付けていますし、量が多いと感じるお客様は、1回分の注文をスキップすることも可能です。お客様の状況に合わせ、できる限り柔軟に対応できるようにしています。
――ビールの飲む量や楽しみ方が、個々人に合わせて調節できるようになっているのですね。
はい。それに、注文できるビールの種類も選べます。定番の他に「SPRING VALLEY BREWERY on the cloud」などのクラフトビールも取り揃えています。「たまには、ちょっと違うビールを飲んでみたいよね」というときに、今まで飲んだことのなかったビールとの出会いや新たなビールの楽しみ方を見つけていただけるような限定商品を、今後もご用意する予定です。
――徹底的に顧客の生活に寄り添っていることが人気の秘訣でしょうか。
おかげさまでサービス再開後もお申し込みが続いており、2カ月弱で想定を超える約1万名のお客様からご応募をいただきました。
驚いたのは、キリンファン以外のお客様が多いことです。キリンというブランドよりも、ホームタップというサービス自体に共感してくださっているんだと思います。もちろんコアなキリンのファンの方もいますが、それよりもお客様は「ホームタップで、こんな生活ができたらいいな」という夢を選ばれたのではないかな、と。
――ビールが好きな人には、たしかに夢のような生活ですよね。
「自宅で本格的な生ビールを飲める」というのは、やはり多くのビール好きの方々の憧れだったのではないか、と。缶ビールではなかなか味わえないクリーミーな泡も、タップ操作で出せる。そのような本質的な価値に加えて、お客様に合わせた柔軟なサービスや、年代や性別を選ばないデザイン性が、多くのお客様に関心をお寄せいただいている理由だと思います。
サービス停止の危機を救った「お客様とのつながり」
――ビール会社として、直接お客様とつながることには、どのような手応えを感じていますか?
お客様のご意見を直にいただけることで、一緒にサービスを作っている感覚が得られるのがいいですね。
ホームタップを始めてから、お客様の具体的な不満を都度ヒアリングして改善してきました。例えば注文数の変更は元々4日前では難しく、もっと時間がかかったんです。でも、多くのお客様から「注文数の変更に柔軟性を持たせてほしい」とのお声をいただいて、工場や流通と話し合ってどうにか調整しました。「変更期間を短くできました」とご報告すると、お客様は非常に喜んでくださるんですよね。
これまでの1年半ずっと続けてくださっているお客様は、ホームタップが山あり谷ありだったことを知っているので、「よくここまできたね」と労いの言葉をかけてくださることもあります。そのくらい、お客様と一緒にこのサービスを良くしてきたという実感がありますね。
――一方通行ではなく顧客とつながって、一緒に作り上げてきたような。
そうですね。基本的にはメールや電話でのやりとりですが、使用感などのインタビューを行うこともあります。サーバーの調子が悪かったときには、ご自宅を訪問しました。直接お話を聞いてみると、開発側の私たちでは気がつかなかったような使い方をされていることもあって、自分の足でお客様のところへ行く重要性を感じましたね。
――顧客の声が届くようになり、社内での変化はあったのでしょうか?
これまでお客様の声を直接聞く機会が少なかったので、それができるようになったこと自体が、私たちにとっては大きな変化でした。
2017年9月に一旦募集を停止したとき、社内ではこのサービス自体を存続するか否かという議論もありました。そんなとき、あるお客様から「この一杯を飲むのが、本当にがんばった私への唯一のご褒美です。不具合もあったけれど、このサービスを続けてほしい」とのお手紙をいただいたのが印象に残っています。
そういったご意見や喜びの声を伝えていくことにより、ホームタップがお客様にとってどのような価値を提供できているかを、社内にも伝えることができたんです。会社としても一方的にビールを提供するのではなく、お客様が幸せにビールと付き合っていく方法を考えるようになりました。
目指すのは「ビールを飲むシーン」の再定義
――これからホームタップでどんなことを実現していきたいですか?
少し前までは「家で気軽にサーバーからビールを飲む」というのは考えられなかったことです。でもホームタップがあれば、自宅で一人で贅沢な晩酌をしたり、サーバーがあることで家族の会話が増えたり、急に思い立ってホームパーティーで友だちを呼んでみたり、が可能になり「ビールを飲む」というシーンが新しくなる。それがお客様の生活を今よりも幸せにする。そんな世界を作りたいです。
具体的には、年末年始などの年間行事や季節、お客様の生活に合わせて、クラフトビールなど限定品のラインナップを展開していくつもりです。
ホームタップがお客様の生活に「あって当たり前」になっていってほしい。無理に商品を売るのではなくて、生活やシーンに合わせて、お客様の生活を豊かにするようなご提案をしていきたいですね。
――まさに「New Beer Experience」、新しいビールとの付き合い方ですね。
そうですね。そしてこれは、お客様とビールの付き合い方の変化であると同時に、会社にとってもお客様との新しい付き合い方でもあります。
お客様の中には、社員よりもビールに詳しい人がいたりもするんです。そのような方々の声を聞けるというのは、会社にとっても財産です。そういったホームタップから生まれたお客様との関係を、キリンの各ブランドのマーケティングや抱えている課題の解決に活かすことができたらいいとも思います。例えば、社内で生まれた新しい商品とタイアップして、実際に飲んでいただいたお客様の声をフィードバックとして反映する、テストマーケティングとしての活用を検討しています。
そうすれば、お客様との直接のつながりが、キリンビールにとってより価値あるものになっていくと思います。
――これまでの「買って終わり」という形とは違う、ビール会社とお客様の新しい関係ですね。
小さな事業だからこそ、お客様から声が上がったタイミングですぐに対応していくことができました。ホームタップで私たちが築いてきた関係というのは、これまでキリンビールがお客様と築いてきた関係よりも深いと思っているんです。関係の深さは数字にはあまり出ないかもしれませんが、本質的な満足度や高い継続率につながっていくと考えています。
――新しく築いたお客様との関係の中で、キリンビールとして今後を何をしていきたいとお考えでしょうか。
「ビール市場自体が縮小している」とも言われている中で、まずはビールの魅力をお伝えしなければ、再び広がっていくこともないと思うんです。だから私たちは、ひとりでも多くのお客様においしいビールを届けたい。そして「やっぱりビールっておいしいよね」と、最初の1杯だけじゃなく、2杯目、3杯目も飲んでもらえるようになりたいんです。ビールの文化そのものをより魅力的にしていくのが使命だと思っています。
ホームタップを通して、これからの時代は購入がゴールではないと身に染みて理解できました。継続して長くお付き合いしていくための中身、つまり体験が大事になってくる。そしてその中身を、これからも私たちはお客様と一緒に作っていこうと思っています。
取材・文/ウィルソン麻菜 編集/イノウマサヒロ 撮影/加藤甫