伝統芸能にとって、誤りとはなんだろう? 江戸時代より今なお続くこの国独自の演芸、落語。戦後も度々ブームが起きて、老若男女見渡せば割と身近に落語好きがいたりする。最近ではコロナ禍でオンライン配信も頻繁に行われている。聞けば、そこに繰り広げられる“粋”なる世界には、 「誤り」=「しくじり」が培ったスタイルがあるそうだ。それは落語界の徒弟制度や演目のなかにも脈々と生きているという。
“本書く派”としてビジネス書から小説まで、落語家としては異例の20冊以上の著書もある立川流の真打・立川談慶さんに話を伺った。
(この記事は2022年8月に発行された『XD MAGAZINE VOL.05』より転載しています)
視点の切り替えが落語の肝?
立川さん「落語には、主語がないんです」
立川談慶さんは今回の取材でこの言葉を繰り返した。「主語がない」というのはつまり、主観を捨てて物事を捉えるということ。わかりやすい例には、こんなストーリーがあるという。
立川さん「『一眼国(いちがんこく)』という演目、落語の言葉でいえば噺(はなし)があります。一つ眼の人が住んでいる国ヘ行って、一つ眼小僧をかっさらい、見世物小屋へ売り飛ばして儲けようとする人たちの話です。で、いざ一つ眼小僧を連れて逃げようとしたら、逆に主人公たちが捕まってしまう。そこで一つ眼の人たちに『こいつら珍しいなあ、眼が二つもついていやがる。よし、見世物小屋へ売り飛ばそう』と言われてしまう。そこには、自分の価値観なんて相手にしたらどうでもいいとしか思われていないよ、という教訓も込められています」
そんなからりとした主客の関係や視点の転換は、落語という芸能自体のあり方に通底する仕組みにもなっているという。落語の世界は、師弟関係を基軸とした縦社会。落語家としての最初のキャリアステップである前座は、主観を捨て、視点を転換するための修業期間だ。
立川さん「弟子入りすると、まずは前座。先輩から言われたことに『はい』と答えることしか許されません。次のステップである『二つ目』でようやく一人前の落語家になって、言われたことに『ああ、その日は仕事が入っていて』って断れるようになるんです。で、真打になると、弟子をとることが許される。要するに、のれん分けです。そのさらに上はご臨終、となるわけですけれども(笑)」

立川談慶(たてかわ・だんけい)
落語立川流真打で著述家、“本格派(本書く派)落語家”。1965年、長野県生まれ。慶應義塾大学卒業。1988年、ワコール入社も芸人の夢を諦めきれず、1990年、吉本興行福岡1期生オーデションに合格し所属となる。1991年にワコールを退社、吉本興業も退所。立川流Aコースに入門し「立川ワコール」を名乗る。2000年、二つ目に昇進、師匠七代目立川談志による命名で「立川談慶」に改名、2005年に真打昇進。趣味の筋トレでは50歳を超える今でもベンチプレス100㎏以上を上げる。
“しくじり”が落語家を育てる
談慶さんは、現代落語を代表する噺家・立川談志のもとで9年半も前座を経験している。多くの落語家は3、4年ほどといわれているので、実にその3倍近くの下積み期間。氏が語るように、要求を断ることすら許されない立場である。絶対的な存在である先輩へ無礼を働く「しくじり」がないように、先輩の顔色から注意を逸らさない。しかもなにがしくじりか、その判断は人それぞれだ。
立川さん「先輩によって基準は違います。ある程度はアバウトでいいという人もおられます」
明確な基準はないが、先輩の主観によって事なきを得る場合もあれば、こっぴどく叱られる場合もある。どれだけ神経を尖らせても、しくじりは生まれる。けれどそれが師弟のコミュニケーションを支える仕組みになっているのだ。
立川さん「前座が先輩に対してしくじったとき、リカバリーショットが求められます。己のしくじりをどうフォローするかで、芸人としての可能性を見られているわけです。立川流の有名人コースで弟子入りしていた高田文夫先生が師匠談志にしくじりをしてしまったときは、翌日に高級牛肉を差し入れしていました。談志も『あいつはものがよくわかってる』なんて機嫌が直っていましたよ(笑)。
ちなみに、談志のおかみさんもリカバリーをしたいい例です。初対面のとき、受付嬢をしていたおかみさんが客として来た談志を不手際で怒らせてしまってね、そのときの謝り方があまりに可愛かったからって談志が惚れたんです。結果として談志が生涯愛して添い遂げた伴侶になるんですから」
しくじりは、師匠から与えられた試練とも取れる。乗り越えれば、師匠から認められる。しかし、リカバリーの良し悪しも当然ながら先輩の主観なので、その道のりの難しさは推して知るべし。
立川さん「前座って、まるで主体性がないじゃないか! なんて言われるけれど、その通り。前座時代は、理不尽に耐える修行のときなんです。『おれは』、『私は』は許されない、そういう時期でした」
この期間を経ないとプロとして認められない。それは、客観的な語り部に徹する落語という芸の性質、ひいては冒頭の『一眼国』に語られる視点の転換にもつながるのだ。
落語のもつ客観性が救うもの
立川さん「客観性を得るといってもそりゃあ人間だもの、怒りたくなる場面も出てくる。だけど考えてみれば、怒りは大抵、勝手な思い込みから起きるんです。前座の頃、『おれはこんなに頑張っているのに、先輩は認めてくれない』なんて思っていたけれど、相手の視点に立てていないから腹が立つんです。一般企業の職場も同じでしょう。それは落語からの学びのひとつです」
思い通りにならないという歯がゆさはやがて怒りに変わり、己や他人を責めてしまう。怒っても結局、具体的な解決につながらず、単なるストレスになってしまうことも多い。落語がもつ視点の変え方は、無意識に生まれるストレスへの処方薬となり得る。
談慶さんを落語に引き込んだのは、大学時代、何気なく入った落語研究会の先輩に勧められて聴いた、立川談志の『らくだ』。その内容に衝撃を受けたのがはじまりだ。
談志は「落語は、人間の業の肯定である」と語っていた。落語には、過ちを犯す、不完全な人間たちが登場する。しかし客観的に見てみたら、「人間みんなそういうものさ」と受け入れられるものだ。
立川さん「社会生活を送っていて、自分のキャリアに“こんなはずじゃなかった”と思う人はとても多いと思います。そういう方にこそ落語を聴いていただきたい」
かつて大手企業へ入社し、その後脱サラして落語家への道を進みはじめた談慶さんにとって、今も昔も、落語は生きるヒントとなっている。そうしたメッセージを託したビジネス書も多く手がけている。
立川さん「私だって、思い通りにならないことがたくさんあります。ずいぶん本を出しましたけど、物書きをしていると、すべての本が重版になってほしいと思うんです。けれども、書店さんや版元さんの方でもいろいろな事情があるから、簡単にいくものではない。それで『なんでおれは頑張ってるのに思い通りにならないんだろう……』って悩んでいました。ただあるとき、野球を見ていてふと出版を野球の打席として考えてみたことがあるんです。重版がヒットだとして、打率で考えてみたら、私の重版率は決して悪くない数字だったんです。納得できなくても、客観的に見たらまずまず。おかげさまでご依頼も継続していただいているし、それでいいじゃない! って思えてきました」
思い通りにならないからこそ生まれる、己への怒り。これこそが自分自身を窮屈にする。でも視点を変えたらそんなの当たり前。そう思うことで少し襟元が緩む。
立川さん「前座の頃も、会社員にならずにすぐ修行すればよかったのかもなあ、と悩んでいました。でも、夢のなかで会社員の私が語りかけてくるんです。『社会に出て働いて、見たこと学んだこと、絶対無駄にはならないだろ?』と。目が覚めたら、確かにその通りだって切り替えられました。道に迷ったときにヒントをくれるのは、異なる視点であり、それを培ってきた過去の自分でもある。過去の自分は裏切りません」
過去の行動は変えられないが、自分が新しい視点をもてば、その意味合いは変えられる。「しくじったっていいじゃない」と思えるようになるには、過去の自分も、今の自身も、俯瞰すること。そうして凝り固まった価値観をほぐすことで得られる、自責や他責の念からの解放こそ、落語の最たる効能のひとつなのだ。

立川談慶さんの近著から。『落語を知ったら、悩みが消えた』(三笠書房、2024年)、『狂気の気づかい』(東洋経済新報社、2024年)。落語の演目をひもときながら、ビジネスの姿勢や考え方をユーモア豊かに語っている。
しくじったのは、あなたひとりじゃない
ここでまた落語自体、そこに語られる世界観に話を戻そう。談慶さんが生業とする江戸落語に登場するのは、江戸の人々、特に庶民・町人である江戸っ子たちだ。
立川さん「江戸はずいぶん大らかなイメージがあるかもしれませんけど、実はとてもストレスフルな世界でした。東京23区の半分ほどの広さに武士と町人、50万人ずついたわけですから。さらに8割の土地は武家屋敷だったから、残りの2割に50万の町人が押し込められていた。町中がスクランブル交差点みたいなもんですよ」
そんな過密都市・江戸では、住民同士のコミュニケーションにおける衝突・すれ違いも絶えなかった。ストレス社会から我が身を助けるサプリメントとして機能していたのが、落語である。
立川さん「あなたが誤るように、私も誤る。お互い足りない者同士、うまくやっていきましょうねって。不完全さを受け入れ合う姿勢が、落語の根底にあるんです」
社会で感じる窮屈さは、己や他人の不完全さを許容できないことで起きる。しかし、ふと自分も他人もフラットに見たら、どこにだって誤りはあるものだ。
落語の登場人物にかかせない慌てん坊やそそっかしい人は「粗忽者(そこつもの)」と呼ばれる。粗忽者たちが繰り広げる噺『粗忽長屋』では、行き倒れを同じ長屋の熊五郎と勘違いした主人公・八五郎が、存命の熊五郎本人に向かって、赤の他人の死体を前に“お前が死んだんだ”と説き伏せてしまう。その死体を己だと思い込んだ熊五郎は、抱えて帰ろうとする。あり得ない状況を思い込みによって信じてしまう粗忽者たちの滑稽話だ。
立川さん「落語には、おっちょこちょいで、不器用な人たちが登場します。彼らの“しくじり”を通して、『しくじったのは、あなたひとりじゃないよ』って、聴く人に声をかけているんです」人の誤りを肯定することで、自らの誤りも許容できる。また、取り返しがつかなくなることを防ぐ指南ともなる。
誤りもネタにしちゃおう
コミュニケーションのストレスは、現代の私たちにも他人事ではない。落語で大らかに語られる江戸時代のように、今、“誤り”とうまくつき合うことがどうして難しいのか。談慶さんはつけ加えた。
立川さん「現代社会は江戸と違って、成果主義ですから。江戸時代なら今ほど成果が求められなかったので、誤りも肯定しやすかった。それが今は効率と結果ばかりを求めるから、つい他人のミスに目くじらを立ててしまう。いうなれば主観一辺倒になってしまっているんです」
成果を重視するあまり、その過程で生まれる誤りを相手目線に立って許容する余裕がなくなってしまう。見方を変えれば、落語は、不完全さを排除しようとする文明に対して先人たちが「待った」をかけるブレーキでもあるのだろう。
ところで、談慶さんが落語で得た誤りに対する向き合い方は、落語を演じる舞台である高座でも貫かれている。
立川さん「噺の途中でお客さんの携帯が鳴っちゃったことがありましてね。お客さんのしくじりですよね。その瞬間は会場が凍りついてしまうんです。『誰?』みたいな。でもこれは噺の伏線になるな、と」
他人の誤りも許容して、この出来事が“ネタ”になると、前向きに捉えた。
立川さん「オチの直前でセリフのなかに『ロクなことがねぇんだよ。噺の途中で携帯鳴らされるしよぉ』って伏線を回収したんです。もう、どっと会場が湧きましてね(笑)」
しくじりは誰にでも起きる。それを責めることはストレスを生んでしまう。けれど主観を外してみれば、ポジティブに昇華できる。そう思うことで気が楽になる。
最近は、落語も裾野を広げ、映画館や飲食店での特別公演やオンライン寄席、無料落語会なども都内のあちこちで開催されている。どんな局面でも誤りを肯定するのが、落語という江戸の粋。日常のなかで窮屈さを感じたとき、落語はあなたの心を調律するヒントになるかもしれない。
文/ivy 写真提供/ビッグベン
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