GDPは世界3位。物質的には十分に「豊か」な日本で暮らしながらも、どこか慌ただしさ、余裕のなさが消えない私たちの生活。ふと自らの気持ちを顧みたとき、日々のなかで「豊かだな」「優しいな」と感じられる機会は、今どれだけあるだろうか。
本当に豊かな社会とは何なのか——。そんな問いを重ね、「“暮し手”の感性を育むこと」に可能性を見出し、事業を営む会社がある。2011年に矢島里佳氏が設立した和えるだ。
同社を代表する事業が、『0歳からの伝統ブランドaeru』。「こぼしにくい器シリーズ」や「本藍染の出産祝い」など、生まれたときから使える製品を伝統産業の技術を用いて開発し、ECや東京と京都にある直営店、全国の百貨店で販売している。
他にも、空間づくりを通じて地域の伝統をつなぐ『aeru room』、企業のブランド再構築に寄り添う『aeru re-branding』、伝統の素材や技術を体感して感性を育む『aeru school』などを展開。多様なアプローチを通して、一人ひとりの感性を変容させる体験を生み出そうとしている。
「人が優しくなるための、プロセスを設計しているんです」
こう語る矢島氏にとっては、伝統産業も自社プロダクトも、社会を豊かにする手段の一つだ。京都の「aeru gojo」を訪れ、その思いと同社が顧客に届けたい「体感」の本質を伺った。
19歳で体感した、“生活から暮らし”への変容
社名に「“先人の智慧” と “今を生きる私たちの感性や感覚” を和える」という意味が込められている和える。設立のきっかけは、矢島氏が感じていた二つの課題意識だった。
一つは、“地域の風習”や“日本を感じる文化体験”が失われつつあること。東京で生まれ、千葉のベッドタウンで育った矢島氏自身、日本のことを全く知らないまま大人になった。
矢島氏「海外に出るとよくわかりますが、日本の持つ『歴史』の長さや『文化』の深さには、いろんな国の方が価値を感じてくださっています。それなのに、日本人がその価値を認識できていないんですね。
『何をもって自分は日本人なのか』という問いはグローバル化の時代につきまといますし、その精神性を自覚できていることが、国際人としての価値を生むのではないかなと。それにもかかわらず、日本文化を知る機会が失われつつある現状に、危機感を持ったのです」
もう一つが、今の社会への疑問だ。「心の豊かさが失われているのかも」と感じた中学生時代のエピソードを、次のように話す。
矢島氏「学校では、大人たちが『人に思いやりを持って接しましょう』と教えますよね。でも、あるとき満員電車のなかで、肩が触れ合っただけで怒鳴り合う人たちを見て。『何でそんなことするんだろう』と考えたとき、やはり心に余裕がないと、些細なことで人は意地が悪くなってしまうのだと思ったのです。
逆に、心に余裕ができて人が優しくなると、この社会はもっと美しくなるはず。どうしたらそれを実現できるかなという、シンプルな問いをずっと持ち続けていました」
転機が訪れたのは、19歳のとき。日本文化への興味から、フリーライターとして伝統産業の産地を訪れるなかで、職人が生み出すモノを通じて得られる「体感」に衝撃を受けた。
矢島氏「漆塗りのお箸でごはんを食べたとき、口当たりや手の持ち心地がすごく良くて。毎日の食事の質感が、たった一膳のお箸で変わる。すごく豊かなことだと感じました。他にも、急須を工業製品から伝統産業のものに変えてみると、こぼれるストレスもなくなるし、美しいものが食卓にあるだけで感性が磨かれていくのがわかる。
それまで生活に使っていた製品は、確かに安価で便利でした。ただ、新しく出るものをどんどん買っていくような消費行動って『なんだか疲れるな』とも思っていて。伝統産業に出会い、吟味して手に入れたものを丁寧に使うようになると、便利さを重視していた日々の“生活”が、豊かな“暮らし”へと明らかに変わっていくのを感じたのです」
まずは「0歳から」。自らの体験をトレースした製品開発
伝統のモノから得られる豊かさを、広く人々に伝えたいと考えた矢島氏。そこで、最初に立ち上げたのが『0歳からの伝統ブランドaeru』だ。暮らしを変容させる体験をどこから届け始めるか考えた際に、感性が育まれていくチャンスの多い幼児期を一番に選んだ。
矢島氏「大人を対象にはじめると、いつまでたっても大人になってから機会を提供することになります。世の中を変化させていくには、まず子どもから循環を変えていかなくてはいけない。そう考えたゆえの『0歳からの伝統ブランド』という選択でした。
19歳の私でも変われるのだから、もし0歳からそういったものが日常にあったら、すごい可能性だと考えたのです。母が幼児教育の会社を経営していることもあって、子どもの持つ感性は無条件に信じられましたね。
子どもたちこそ、実は教える必要がない。ただ育むだけでいい存在だと思っていましたし、そこで触れるモノを変えることから、新しい体験の循環も生まれると考えました」
矢島氏「aeruでは、子どもたちに豊かな体感を届け、感性を育んでくれるものを“ホンモノ”(“本”当に子どもたちに贈りたい日本の“物”)と定義し、製品を開発しています。
重要なのは、初めて触れる人が何を感じてくれるかという視点です。大人でも子どもでも、ほとんどの人は伝統の魅力を知りません。私自身の『初めての体感』を、子どもか大人かを問わずきちんと追体験してもらえるのか、常に意識していますね」
感性を育むうえで、産地ごとの特性も生かせるようにしている。たとえば、「こぼしにくい器」は、素材の土や石の手触り・色がよくわかるよう、あえて裏にはコーティングの釉薬をかけていない。そのため、複数のアイテムを並べると、よりその違いがはっきりとわかる。
矢島氏「発見があれば、『何でだろうね』と対話が生まれます。実際に、子どもがお店で違いをおもしろがる様子を見て、同じ産地のものでそろえようと考えていたご両親が、違う産地の器からいくつかの商品を選んだこともありました。
また、同じ産地のものでも、職人の手仕事で作られている分、微妙な違いがある。兄弟で全く同じ製品を買っても、子どもたちだけは差を見分けられる、とおっしゃる方もいましたね。日々の暮らしのなかで、そんなふうに子どもの感じる力と観察力を自然と磨いてくれているのが、伝統の力だと思うのです」
“ホンモノ”が一つあるだけで、人の行動と感性が変わる
学びのきっかけが、随所に散りばられたaeru。一方で、間違って落とせば割れてしまう磁器や陶器製の製品も多い。通常は子ども向けにあまり選ばない素材だが、「だからこそ与えられる経験がある」と矢島氏は語る。
矢島氏「子どもが扱うなら割れないものにすべき、という声は実際あります。でも、割れないものだけを子どもたちに渡すのは、片付ける大人側の都合だと思うのです。そのようなモノばかりでは、子どもたちから『モノが割れることを学ぶ』機会を奪ってしまいます。今では逆に、『割れるものを使わせたいと思って』と来店される方も多くいらっしゃるのです」
矢島氏「aeruでは、器が割れても『金継ぎ』『銀継ぎ』といった技術を使って修繕するサービスを提供しています。
子どもは器を割ってしまった瞬間にとても反省しているし、すごく悲しんでいる。そのときの寄り添い方の一つに、『大事にしていたから、職人さんに直してもらおうか』という選択肢が入ると、モノの扱い方や人への関わり方が変わってきます。『割って怒られたから、片付けて捨てる』だけの場合とは、全く違う人生になると思うのです」
職人の手仕事で生み出される製品は、決して安価ではない。しかし、それが生活のなかに一つ入ることで生み出されるさまざまな経験は、子どもたちはもちろん、周囲の大人の感性をも磨いていくという。
矢島氏「子どものために買った結果、『自分も身の回りのモノの背景にある、人や作り方を考えるようになった』という親御さんの声をたくさん聞きました。今の生活で、100%伝統産業品だけで暮らすのは現実的ではありませんが、要するに塩梅だと思うのです。
たとえば、金継ぎした器は、電子レンジでは使えません。でも、タッパーに入れたり、レンジ対応のお皿を使ったりして、あとで移し替えればいい。割れた器を実際に金継ぎしてから、そこに気づかれる親御さんもいらっしゃいますよ」
大事なのは、今まで気づかなかったことに気づくきっかけ。それが少しあるだけで、子どもはもちろん周囲の大人も優しい気持ちになっていく。一人ひとりの気持ちが変わっていけば、社会も必ず変化する。
矢島氏「もし仮に『便利だけれど、いつなくなっても構わないもの』ばかりが社会に溢れたとすれば、それは私たちがそういったものだけを選び続けた結果だと思うんです。人がモノやサービスを選ぶということは、企業に向けた投票行動と同じですから。
だからこそ、子どもたちへの製品を通じて、大人が『次の世代に何を残したいか』と考えるきっかけをつくる。そのうえで、“消費者(=消して費やす者)”になるのではなく、必要なものを必要なぶん、必要なときに吟味できる“暮し手”になろうと伝えています」
子から親へ。新たな循環を生むaeru school
aeruが生み出す「体感」と、それを通じた感性の変容がもたらす可能性に手応えを感じる矢島氏。しかし、“ホンモノ”の価値を伝え、変容のきっかけとなる最初の一歩を「家に迎え入れてもらう」難しさも、9年近い運営の中で感じてきたという。
そこで、和えるが昨年から特に力を入れているのが、伝統産業が持つ豊かさを体感してもらうaeru school事業だ。「和紙の型染め体験」や「木の目利き教室」など、伝統の技術や素材に触れることを通して感じる力、観察する力を育む機会を提供している。
aeru schoolでは、「幼い子どもであっても一つひとつの学びがきちんと日常につながる」ことを、一緒に参加する大人が実感できる。この点にも矢島氏は大きな可能性を見いだしている。
矢島氏「たとえば型染め体験では、刷毛(はけ)の材料について『これは馬と鹿の毛でできているよ』ときちんと伝えるようにしています。型染め体験に参加してくれた子が、その後の旅行先で鹿を触ったときにaeru schoolで学んだことを思い出してくれて、後日お店に『もう一度、刷毛を触らせてください』と来てくれたのです。それで、何度も触ったあとに『うーん……一緒だ!』と。
この体験のつながりが、すごく大切だと思うんですね。2歳児や3歳児にはわからないだろう、覚えていないだろうと思われる大人の方も多いですが、そんなことはないのです。子どもたちは十分に大人の言葉を理解して、素材や背景を暮らしに結びつけることができる。
その成長を目の当たりにした親御さんたちから、暮らしの見え方や、アンテナの張り方が変わったという反応をいただけるようになりました」
aeru schoolでは、文化教育の一つとして「日本の所作」を学ぶ講座も実施している。矢島氏のもう一つの課題意識、国際社会のなかで必要となる“日本人として知っておきたい”文化的経験を育む狙いだ。
矢島氏「正しい日本食の作法など、きちんと文化的教養を持っていることが、中身のある国際人をつくっていきます。けれど、今は箸置きや汁椀の正しい使い方が親御さんもわからないので、それを伝えられる場を作れたらと考えました」
矢島氏「所作講座も、『幼いから覚えられない』ではないんですね。大人が見本になって子どもたちに伝えると、きちんと吸収してくれます。
そして、自分が知ったら『お父さんは知らないだろうから、帰って教えよう』と、今度は子どもが大人に教える側になれる。親子が共に暮らしを変えていける場なんです。新しい文化の循環を作ることのできる機会を、aeru schoolでもっと増やせたらと考えています」
時代の変化のなかで、『伝統を次世代につなぐ』本当の意味
「久しぶりに何かを自分の手で作った」「難しさや面白さを感じて想像力が働くようになった」など、親側の変化も目に見えて感じられるようになったaeru school。子どものみならず、大人たちの感性にも刺激を与えられる場として、企業内で開催することも増え始めている。
矢島氏「aeru schoolを、企業研修や福利厚生でやってほしいという声をいただくようになりました。実際に、大手広告代理店や金融機関で伊勢型紙の和紙ハガキ染めをするなどしましたが、そうした動きは少し前だと考えられなかった。時代も変わってきているなと感じます。
おそらく、社員のクリエイティビティや美意識を高めていくこと、人間性を豊かにすることが、結果としてビジネスの結果にもつながると考える企業が増えてきたんだと思うのです。和えるではそのお手伝いを、今後さらに進めていければと考えています」
暮し手に寄り添う“ボトムアップ”的なモノづくりに、ビジネスパーソンに向けた“トップダウン”の文化教育——他にもさまざまな事業を展開している現在の和える。
自社について矢島氏は、「暮らしを変えるために必要なプロセスが人によって違うから、アプローチをいくつも設計しているだけなんです」と語ってくれた。
社会を豊かにしていくことが目的だからこそ、伝統産業も日本文化も、人の感性を開くための「優れた手段の一つ」に過ぎない。子どもから大人まで、すべての取り組みが相互関係を持ち、循環を生んでいくのが和えるの事業なのだ。
矢島氏「乳幼児期から始めましたが、私たちは『いくつになっても豊かさと共にある』ための会社でいたいと思っています。人は何歳になっても、変わろうと思えば変われますから。
さまざまな豊かさを体感として届けて、日々の行動を変えるきっかけにしてもらう。そして、人がもっと優しく、社会がより美しくなるようにしていく。これが、和えるとして『伝統を次世代につなぐ』意味なのかなと思っています」
執筆/佐々木将史 編集/庄司智昭 撮影/其田有輝也