スマートフォンが普及して以降、多くの小売事業者が「EC」を充実させていくなかで、私たちは商品を、いつでも、どこでも買うことができるようになってきた。
一方で、情報の溢れるこの時代、人が何かを欲しいと思ったり、買うことの楽しさを感じたりするうえでは、オフラインの「実店舗」も大きな魅力を持つ。
国内外に約1,400店舗を抱え、連結売上高2,200億円を超えるアダストリアは、そんなオフラインとオンラインの強みを“掛け算”させ、ファッションの楽しさを届けようとするアパレル企業だ。
「最終的に、僕は人と人をつなぎたいと思っているんですよ」
同社で、25もの自社ブランドが立ち並ぶEC『.st(ドットエスティ)』の運営を統括する田中順一氏は、アダストリアの目指す先をそう静かに語る。
田中氏が.st立ち上げから約8年携わるなかで感じてきたこと、顧客と良好な関係を築くうえで大切なECのあり方などを聞いた。
インフラとしての『.st』×個別のブランド戦略
1953年、紳士服小売店として設立されたアダストリアは、これまで幾度もビジネスモデルを変革し、事業を拡大してきた。現在は『GLOBAL WORK』『niko and …』『LOWRYS FARM』など、顧客層の異なるブランドをいくつも抱える「マルチブランド」を戦略としている。
次々とブランドが増えゆくなかで、2012年に実店舗の会員とウェブ会員のIDを全ブランドで統一。そのうえで、ブランドごとに異なる運営がされていたECを統合、ポイントなども共通化し、2014年11月にリニューアルオープンしたのが.stだ。
すでに各ブランドに顧客がついていたこと、「実店舗数の多さ」を活かしてリーチを続けたことなどにより、.stは順調に売上を拡大。リニューアルオープンと同時にリリースしたアプリのダウンロード数も順調に増え、2020年1月には、会員数1,000万人を突破した。
同社のなかで、田中氏が率いるマーケティング本部は、サイトやアプリの運用、商品レビューなどの各種機能の拡充、実店舗と連動するシステムづくりなどを担う。同じプラットフォーム上にマルチブランドがあるメリットを活かし、顧客行動のデータを他ブランドと共有する仕組みなどもつくっている。
一方で、それを実際にどう運用するかは「ブランドごとの戦略を尊重」していると話す田中氏。顧客に届けたい価値は、ブランドの数だけ存在するからだ。
田中氏「例えば、商品レビューは年間40万件ほど寄せられていますが、客層や訴求ポイントも異なるので、レビューをそのまま商品開発に活かせるブランドもあれば、そうでないものもあります。集めたデータをお客様の体験にどう還元していくかは、各ブランドに任せるべきです。
僕らのチームは、そのために使える機能をブランドに渡すこと、統一されたインフラ上でも“各ブランドの色が出せる仕掛け”ができるよう、余白を設けることを意識して開発をしています」
各ブランドの価値観を顧客に届けるうえで、鍵となるのが、チャネルとしての「EC」だ。.stの責任者でありがら、やるべきは「デジタルでの売上だけではない」と話す田中氏は、それぞれの役割をどのように認識してきたのだろうか。
パーソナライズ化で、ECで得られる情報の「少なさ」を補う
田中氏「ブランドを五感で体感してもらう場としての店舗と、利便性のEC。この両者の役割は、8年前から今でも大きく変わっていないと思っています。
ただし、オンラインで事前に情報を得て、欲しいアイテムを絞ってから実店舗に行くという行動はかなり増加している。ブランドに出会う、ブランドを知る“入り口”としてECが使われる場合が増えているんです」
田中氏「一方で、ブランドの価値観を五感で感じてもらえるのは、今もやはり実店舗だと思っています。実際に商品を見て触れて、そこで働くスタッフと会話できる。結果、好きになってもらえる可能性も高いんです。
実店舗にふらっと入ったときに得られる情報量って、たまたまサイトを訪れたときよりも多いと思いませんか? 仮に10秒でも、何となく置いてあるものが分かるし、世界観も伝わるんですね」
ECには、サイト内にたくさんの商品が掲載されている。だが、1ページ見るだけではそのブランドの世界観を十分に感じとるのは難しく、検索したり様々なページを見たりする必要がある。
だからこそ、ECでは「パーソナライズ化が重要になる」と田中氏。特に、マルチブランド戦略を取るアダストリアでは、よりその意味が強くなるという。
田中氏「.stにはたくさんのブランドがありますが、複数のブランドを買われるお客様もいれば、ずっと一つのブランドのみ購入されるお客様もいます。そして、後者の方が、年間の購入額が高いケースも多々あります。
結局は、お客様ごとに合った情報をお届けすることが一番だと感じています。同じプラットフォーム上で色々なブランドを運営していると、つい他も知ってもらいたくなりますが、多すぎる情報はノイズでしかない。パーソナライズを進めることで、その人に合った情報をお届けし、より気持ちの良い時間をお客様に過ごしてもらえたらと思っています。なのでその理想を早く作りたいです」
目指すのは、人と人を“つなげる”プラットフォーム
実店舗とEC、双方の価値を認識したうえで、アダストリアが現在注力しているのは、両者を用いて購買以外のサービスを強化していくこと。そして、そこから新たな「顧客接点(タッチポイント)」をつくることだ。
田中氏「例えば、.stには実店舗のスタッフが個人のスタイリングを投稿している『STAFF BOARD』というコンテンツがあります。お客様はスタイリングは勿論、スタッフの身長やアイテムの使用感に関するコメントなども閲覧でき、お気に入りのスタッフをフォローすることもできるんです。
お気に入りのスタッフとつながり、そのスタッフの他のスタイリングも参考にしながらアイテムを購入する。そこには自分自身に合うものを選択した”納得感”が生まれます。
情報が溢れ、自分の価値観に合うものを選択するのにも手間がかかる時代だからこそ、この“納得感”を持ちやすくすることが価値に繋がると考えています」
ここでアダストリアが.st上に構築したのは、実店舗で「働く人」と顧客を、EC上で“つなぐ”仕組みだ。
この“つなぐ”という発想が、同社が掲げるスローガン「Play fashion!」を実現するためにも重要なキーワードとなっている。
田中氏「今はモノを買ってもらおうと思っても、品質のみで差別化することは難しい時代です。だからこそ、お客様に情緒的な価値をもたらせるかが大切。人同士のつながりは、それを生み出せると思うんですね。
『.st』の名前にも、ブランド、働く人、お客様、それぞれの“story”(『st』)を、“デジタル”(『.』)で上手くつなげる、という意味が込められています。そこに来てもらうことで、お客様がスタッフとつながることができる。あるいは、お客様同士がつながる。僕らは、そんなプラットフォームを改めて作りたいと思っています」
顧客間に新たなつながりを生むものとして、レビューを通じた「相互評価」の仕組みなどを田中氏は構想する。ある顧客の書いたレビューを他の誰かが見て、「役に立った」と感じたとしても、今のECには感謝を伝える方法がまだない。
田中氏「もしそこが可視化できれば、お客様同士でどんどんつながっていくじゃないですか。すると、数多あるECのなかでも、わざわざ.stでモノを買う“意味”が生まれますよね。この“意味づけ”がすごく大切です。
正直、ただモノを買うだけならば、総合ECモールの方が便利なんですよ。でも、僕らが目指すのは、そこではない。“楽しい”や“わくわくする”という感情を生み、『Play fashion!』できる場を実現させることが、.stの役割だと考えています」
“魂”が入らなければ、顧客には伝わらない
ECだからこそのパーソナライズ化。実店舗との掛け算。そして、“つながり”という意味づけ。——顧客とのタッチポイントをいかに生み出していくか、今後のアダストリアの戦略を明かしてくれた田中氏に、インタビューの終わり、小売業やECがどう変わっていくかの展望を尋ねた。
田中氏「購買をベースにしたECという形は、今後どんどん変わっていくと思います。企業にもブランドにも、持っている歴史や思想、働く人などから出る“色”があるじゃないですか。その“色”が感じられるものが、2030年くらいまでにたくさん出てくるんじゃないでしょうか。
僕らは多くのブランドかつそのブランドを好きでいて頂けるお客様がいらっしゃるので、そのアセットを生かしながら人を“つなぐ”ことを目指して.stを運営しています。サービスとしてのECの『理想の形』は、事業の内容や提供するプロダクトによって、全く変わってくるだろうなと思います」
それぞれの強みを活かした小売のあり方、ECの設計を探るべきだなと。そのなかで、もし自社独自の機能をつくるのであれば、「運用が重要となる」と田中氏は最後に語る。
田中氏「テクノロジーで上部だけカッコよく開発しても、現場で使われなければ意味がありません。結局それを扱うのは人なので、スタッフの業務改善もセットで議論する必要がある。何かを始めるのであれば、何かを止めないといけないのに、ここが疎かになっているケースをよく見ます。
一見チープな機能だったとしても、お客様に提供したい価値が明確で、きちんと現場で運用されれば、すごく良いものになる。何をどうお客様に伝えていくか、“魂を入れる”ところまできちんと考えて開発することが、とても大切になるかなと思っています」
執筆/佐々木将史 編集/木村和博 撮影/伊藤圭