TwitterをはじめとしたSNSを開けば、毎日必ずといっていいほど誰かの炎上を目の当たりにする。さらに、その様子はSNS内におさまることもなく、ニュースに取り上げられ火の勢いを増し、炎上の当事者が何かしらの“正しい”反応を見せるまで、燃え上がり続る。SNSはいつの間にこれほど窮屈なものになってしまったのだろう。このような息苦しい社会の背景、 「誤り」への向き合い方を知るため、 「知のプラットフォーム」の構築を目指す株式会社ゲンロンの創業者でもあり、 「ゲンロンカフェ」やオンライン配信プラットフォーム「シラス」など、自由な議論の場も運営している思想家・東浩紀さんのもとを訪ねた。実践としていかに誤りを肯定しているのかを聞いてみると、哲学的な立場から活動を続けてきた印象とは裏腹に、意外にも人間味あふれる答えが返ってきた。
(この記事は2022年8月に発行された『XD MAGAZINE VOL.05』より転載しています)
「正しさ」はごく限定的なもの
新型コロナウイルスの流行から約2年、東京オリンピックの開催から約1年と聞くと、目まぐるしく過ぎていくときの早さに驚く人も少なくないのではないだろうか。2022年2月の暮れにはロシアがウクライナへと侵攻をはじめ、未だその戦火はおさまっていない。
この数年を振り返ってみても、歴史に残るような重大な出来事が数多く起こり、どの情報が最新で、どの専門家が語る言葉が“正しい”のか、ニュースやツイートを追い続けた人も多いはずだ。これほど緊迫した状況のなかでも、政府によって発された「共助」のメッセージもむなしく、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)を盾にお互いを傷つけ合うような言動が蔓延(はびこ)っている。
東さん「一言でいってしまえば『みんなちょっと落ち着いて』に尽きるのですが(笑)。昨今はすぐになにが正しいか、誰がどのように誤っているのかを指摘することに皆が躍起になっていて、正しさそのものとの距離感が摑めていないように感じています。
正しさは時代によっても、社会背景によっても大きく変わるものです。数学や物理学の分野であれば絶対的な正しさは存在するかもしれませんが、ごく限定的な話で、私たちの身の回りにおいては本来わからないことだらけですよね。『正しさが振り回されている』とよく耳にしますが、そこで交わされている“正しさ”も絶対的なものではなく、すぐに変わるものがほとんどです。
感染症はそんな『正しさがわからないもの』の一例です。つい一年前まで、新型コロナウイルスの感染対策として飲食店での酒類の提供が制限され、ゼロコロナが目指されていました。しかし、現在では感染者が毎日出ていても飲食店への制限はなく、ゼロコロナを目指しているような様子もありません。別の例を挙げると、震災後は国内でも反原発の意見が目立っていましたが、今となっては安全保障のリアリティから原発の再稼働を推奨する世論が目立ちはじめている。ともに科学者や専門家がいう正しさとはべつに『社会的な正しさ』があって、それはかなりあやふやなものなのです。正しさというのは一時的、限定的なもので、絶対的に『これが正解だ』と言えるものは少ないはずだという感覚が大事です」
政治家や企業の重役、タレントやSNSの有名人まで、誰しもが正しさを求められるような状況は色濃くなるばかり。なぜこうも正しさが振り回され、それぞれの軋轢の原因となっているのだろうか。
東さん「大きな話でいえば、冷戦期(1945~1989年)の世論の対立は、共産主義を目指すのか、資本主義を目指すのか……といった理想を巡る対立だったわけです。しかし、今は政治的な理想像を巡っての争いではなく、個々人のアイデンティティと、それぞれが信じる正しさを巡っての争いに焦点が移動している。冷戦期のような巨大な理想はない、確固たる理論もない、個々人の信じているものが正しいかどうかで戦わざるを得ない。なので、余計に正しさにしがみつき、振り回してしまうのかもしれません。その戦いを増幅するものとして、SNSの流行は大きな要因のひとつにはなっていると思います」
SNSは、それぞれがアカウントを所有し発信できる分、「目指す未来にとって正しいか」よりも、自分が社会から排除されないために「いかに間違っていないか」を示す議場として、奇しくも発展してしまったのではないか、と東さんは語る。しかし、東さんの言う通りにそれぞれが思う正しさについて議論しているのであれば、正しさに無関心であるよりも、よほどポジティブな傾向なのではないか。
東さん「僕はむしろ、今は正しさが重要視されているというよりも、軽視されているように感じているんです。正しさというのは絶対的なものではなく、常に更新されていくもの。逆説的に響くかもしれませんが、『正しさそのものなんてない』という感覚こそが“正しいもの”なんです。しばしば政治問題になっている歴史認識にしても、私たちはタイムマシンを持っていないのだから、結局は今ある資料から過去を推測するしかありません。とすれば、その説をひっくり返すような資料が出てきたら、今の正しい認識もひっくり返りますよね。その可能性がつねに開かれていることが大事です。今時点では正しいかもしれないことも、明日にはわからない。繰り返すようだけど、正しさとは、それくらいの距離をもって接するべきものではないでしょうか」
実践的な「誤り」のあり方
正しさと距離を取り、それが絶対的なものではないことを自覚し、更新し続ける態度が必要なのではないか、と東さん。それは自らの「誤り」を認める作業の連続でもある。東さんの著作である『ゲンロン0 観光客の哲学』や『哲学の誤配』のなかでも度々言及される「誤配」は、緊張で張り詰めた現代の糸を少し緩ませてくれるような提案だ。東さんは『存在論的、郵便的』で語られている通り、フランスの哲学者ジャック・デリダの研究を続けてきたひとり。
東さん「デリダはmis=誤をキーワードとして扱っていて、僕はこの考え方に関心がありました。人はいつ死ぬかわからないし、明日なにが起きるかもわからない、といった人間味のある説で『誤配』はそこから生まれたひとつのキーワードですね」
言葉が誤って伝わってしまったことで、新たな発見が生まれた。観光客が、地元の人では気づかない魅力に偶然気づいてしまった……といった、様々な誤りを肯定することでこそ、新しい思考や可能性を広げてくれるのではないか、と東さんは続ける。
東さん「大前提として、誤ることを推奨しているわけではありません。そもそも人は誤ってしまうもので、基本はむしろ誤りにあるということです。なにかが成功した、間違ってなかったといえるときは、たまたま自分の思った通りになった結果から逆算してそう感じられているだけです。大体のことはうまくいかない。生きることは誤ること。その副産物から次のステージに進めていくもの。正しく予想通りに月日を重ねていけるものではない。
ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガーは、人には必ず死が訪れるということを出発点にし、死から逆算して毎日を生きろと説いています。つまり運命を自覚しろということですが、それって要は自分の身に何が起きるか予測して生きろということで、一見正しそうに見えるけどまったく現実的ではない。ハイデガーの説を批判しているデリダの説の方が、不確実性を受け止めていて、実感的に賛同できると思います」
人は誤る生き物であっても、誤りが許されないケースは往々にしてある。たとえば、ある企業でビジネスとして何かの施策を行い、うまくいかなかった場合「まあいいじゃない」と飲み込まれることはあまりない。個人が誤りを肯定できても、組織のなかにいればその実践は難しくなるのではないか。ビジネスの場においても、誤りの肯定を実践することは可能なのだろうか。
東さん「ビジネスこそ、誤りの連続ではないでしょうか。最初に練った事業計画通りに商品やサービスをつくって、狙い通りに当たって、予想通りに業績を立てるなんてことは絵空事ですよね。企業がどれだけ綿密に練ったビジネスプランでも、市場に出してみないと結果はわからない。人気が出ると思っていなかった商品の方がヒットして、事業を組み立て直すこともたくさんある。特に、世間に広く受け入れられている革新的な商品ならなおさら、最初は反発を受けたり不具合が出て回収したり……と多くのトライアンドエラーを重ねているはず。全く過ちのないビジネスこそほぼ存在しないように思います」
確かにビジネスは、誤りによって駆動されているともいえる。しかし、ビジネスの根幹をなす事業計画や戦略のうえで、誤りを認め肯定できる土壌があるとしても、働くメンバーの層で捉えると、やはり誤りへの肯定が浸透しているとは一概には思えない。企業組織などの大きなコミュニティで誤りと付き合っていくためには、どのような体制やマインドが必要か、より実践的な問いを投げかけてみた。
東さん「それぞれの社の統治方法次第でもありますが、コミュニティで誤りを肯定することはつまり、“許し”と密接に関わってくると思います。デリダには計算可能性と計算不可能性という議論があります。デリダは、法律は計算可能だと言います。規則をつくって、そこから逸脱したらサンクション(=刑罰)を与える。法とはそういうものですが、このシステムは端的にいうとプログラムのようなもの。この計算可能な論理に則って組織を組み立てると、ルールを細分化して決めて、プログラムのように人を動かす構造になる。するとプログラムばかりが肥大し、組織も硬直化します。さらに、ルールが固定されると必ずそれをハックする人が出てきて、するとまたルールを追加する必要が出てきて……と、いい循環ではないですよね。
対して、誤りや許しは計算不可能なもの。どういうミスが起こって、それに対してどこまで許せるかなんて、事前にはほとんど想定できません。端的にいってしまえば、都度判断するしかない。すべてをプログラムで決めてしまうのではなく、計算不可能な領域をどう確保するかが組織にとっては重要なのではないでしょうか。平たくいえば、メンバーが何かミスをしたときに必ず公平に処罰されるといった仕組みではなく、その中間で都度判断できるようにしておいて、ときと場合によって処罰が変わる。たとえそれが不公平だったとしても、『それはそういうものだ』といった認知が許されるような組織にしておく。そういう統治をつくるのは難しいとは思いますが、そこまでいかないと判断の公平性だけに囚われてしまい、一人ひとりの可能性がうまく発揮できない組織になるのでないかと思います」
人が人でいられる場を
会社組織のような大きなコミュニティにおいても誤り(計算不可能性)ができる余地をつくっておくことが重要、という東さんの言葉は、当たり前ではあるけれど、見過ごしされがちなことを再提案してくれている。では、もっと小さなコミュニティ、たとえば友人や知り合いの間においてはどのような実践の方法があるのだろうか。
東さんは株式会社ゲンロンの一環として、イベントスペース「ゲンロンカフェ」やオンライン放送プラットフォーム「シラス」の運営も行っている。ゲンロンカフェでは毎日のようにゲストを招いてトークイベントを実施しており、シラスからは生放送でその様子を視聴できる。特筆すべきは、ゲストの幅広さだ。社会学者や歴史学者といった専門家はもちろん、画家や漫画家、ときには能楽師までをゲストに迎え、3時間以上にわたるトークを繰り広げている。シラスの開設に際して公式サイト上に「人間が人間でいられるための小さな空間を、泡のようにたくさんつくりたい」と綴った東さんに、その思いを聞いた。
東さん「ゲンロンもゲンロンカフェも、正しさに振り回されない環境や空間をつくるための組織です。スクールのようなある程度閉鎖した安心しあえる空間をつくって、参加した人同士がお互いを刺激しあってなにかものをつくる、そういったことが目的です。
今では会社や大学のような組織だと、リスクの観点から飲み会は推奨されません。組織運営的には、それが“正しい”とされている。しかし飲み会のような、ある意味無駄な時間と場所がないと、自由な議論は生まれないと思います。議論の場所だけ用意して『はい、議論してください』と言われても、いい議論は生まれない。それどころか会話さえうまく成立しない。まずは顔を合わせて、リラックスする時間を設けて、徐々に会話がはじまって、ようやく議論の素地ができる。質の高いコミュニケーションは、それくらいコストのかかるものだと思います。集合場所と時間だけ送られてきて、登壇者が淡々と発表して、ちょっとコメントし合って終わるようなよくあるシンポジウムとかカンファレンスのかたちは、見ている人にとっても登壇者にとっても面白くないし、得られるものも少ない。
ゲンロンカフェでもスライドで発表していただくことはありますが、あえて発表中に質問したり、合いの手を入れたりと脇道に逸れるようなことをしています。もちろん、毎回テーマを設けているので視聴者が知りたいことから離れすぎないことも大事ですが、予想通りのことだけ話されても面白くないですよね。トークイベントも視聴者を交えた小さなコミュニティの場です。単に情報を伝えるだけでなく、視聴者に議論は脇道こそが面白いという事実をわかってもらうこと、ある意味で視聴者を育てるようなこともセットで考えています。ビジネスにおけるサービスとユーザーの関係は、もともとそういう“育てる”という要素を含むはずだと思っているんです。」
誤って、謝る
トークイベントにおいて、積極的に脇道に逸れることで本筋とは違った収穫(=誤配)が生まれ、登壇者と視聴者それぞれが想像もしなかったものをもって帰れる。 “正しさ”に抵抗する場として設けたコミュニティならではの実践だ。
では、東さんの運営するコミュニティではどのような発言も許され、いかに無礼な振る舞いも許されるかというと、もちろん決してそうではない。誤りとして肯定するボーダーラインはどこにあり、どのような距離感で向き合っていけばよいのだろうか。
東さん「人同士のコミュニケーションは感情が伴うので、関係が深まれば大なり小なり加害の危険性をはらんでいます。どのような発言でも暴言になる可能性がある。その危険は自覚しています。実際トークイベントでは、リラックスした場を提供しているからこそ、ときに過激な発言も出てきたりする。リスクヘッジでいえば用意されたやりとりだけする方がはるかに安全です。でもそれではゲンロンの目的は達せられない。なので、適度に不健康な状態をつくり出しています。
そのうえで大事なことはヘイトやハラスメントのような加害性を、いわば“結晶化”させないことにあるのだと考えています。イベントに限らず会話のなかでは、捉えようによっては暴言に感じるようなフレーズや言い方が出てくることがある。被害者が加害をされたと感じる手前の、宙に浮いた状態です。そういうときはすぐに司会者として介入する。そして撤回させたり、文脈をずらしたりする。そのケアを怠ってしまうと、加害が結晶化し、加害者と被害者の関係が動かせなくなってしまう。実践的には、相手の表情を読む、早々に謝るといった面倒をいとわないということですね。そういう手間暇をかけてこそ、誤りといい距離感で付き合っていけるのではないでしょうか」
誤ったら、謝る。東さんの語る通り、誤りとのつき合い方は想像以上に根本的な、人間らしい振る舞いにあるのかもしれない。新型コロナウイルスの流行以後、リモートワークを取り入れる企業が世界的に増え、離れていてもリアルタイムにつながれるツールは「オンライン飲み会」のようなかたちで一般にもその裾野を広げた。しかし、相手の気持ちを読み取る点においては対面に勝らないことを誰もが感じているのではないだろうか。東さんは、誤りと付き合ううえで対面でのコミュニケーションは欠かせないと続ける。
東さん「気持ちの機微を読み取り、加害と被害の関係を結晶化させないコミュニケーションをとるためには、結局のところ対面で会うことが最も合理的です。失言したら謝ればいいとマニュアル的に提案しているわけではありません。毎回の都度判断で、予想外の誤りの可能性になるべく早く気づき、傷つけているかもしれない相手にはきちんと謝る。あまりにも基本的なことですが、インターネットを介してのやり取りだと、これが途端に難しくなるんですね。現代ではコミュニケーションにかけるコストを軽視するばかりに、加害が結晶化しSNSに告発される悪循環に巻き込まれているように見えるので、改めて言葉にしています。
誤ることは誰でもあります。そのときは謝ればいいんです。正しさを振りかざす人はそれを認めない。だから、逆に謝ることで罪を認めることになるのでは、と頑なに謝罪を拒む場面も散見します。けれども謝罪とは、自分のためにするものではなく、まずは傷つけたかもしれない相手の気持ちを思って行う行為。誤りを認めて訂正することを避けようとすればするほど、関係修復は大変になるのではないかと感じます。
なんだか社長の小言のような結論になってしまいましたが、そういうごく当たり前のコミュニケーションこそ、今見つめ直すべきではないかと思います」
取材・文/梶谷勇介 写真/田巻海
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