荒木優太さんによる「誤る」ことについて考えるコラムを紹介する。
(この記事は2022年8月に発行された『XD MAGAZINE VOL.05』より転載しています)
荒木優太(あらき・ゆうた)
1987年、東京都生まれ。在野研究者(専門は有島武郎)。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了。2015年、第59回群像新人評論優秀賞を受賞。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍、2016年)、『貧しい出版者』(フィルムアート社、2017年)、『在野研究ビギナーズ』(共著、明石書店、2019年)、『有島武郎』(岩波新書、2020年)、『転んでもいい主義のあゆみ』(フィルムアート社、2021年)など。
歴史学者のジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』 (みすず書房、2019年) の原題はThe Tyranny of Metrics。直訳すると「評価基準の専制」となる。この本は、病院の評判ランキング、警察の検挙率評価、学術論文の被引用件数などを筆頭に、数値的データ管理による透明性と賞罰の厳格化を求めすぎた結果、かえって不条理におちいる「専制」下の諸局面を紹介している。
たとえば、かつてならば肌感覚で理解されていた各種仕事の出来不出来の微妙な差が数値によって測られ共有されるようになると、その結果を改ざんする動機づけもまた強化され、それを取り締まるさらなるコストの投入と搔い潜りのイタチごっこのすえ、すべての関係者が疲弊し誰が得しているのか全くわからない謎めいた状況ができる。また、測定で業績を管理しようとしたとき、測りやすいもの、言い換えれば数に置き換えやすいものが優先的に取り上げられるのに対し、そうでないものは無視されるか無理くりな翻訳や変換を強要されてその本来の姿を失ってしまう。
仕事量は並程度だったとして、職場を明るい雰囲気にさせたり、部下にとって相談しやすいオープンな性格をもっていたりする社員がその組織体のパフォーマンスに貢献していないとは到底思えない。ムードメイクの能力は測定可能だろうか? エビデンス主義の全面化は、説明責任〈accountability〉を、文字通り、カウントできることに切り詰めてしまった。
試行錯誤は測れるか?
よく思うことがある。自己啓発書に代表される試行錯誤を勧める言葉は巷で妙にあふれかえっているくせして、試行錯誤を奨励してくれる社会的空間はひどく狭いんじゃないか、と。皆表面ではそれっぽいことを言う。前例のない試みには失敗のリスクがつきまとうよね、でもそういう賭けを経なければブレイクスルーは起きないよね、なら多少の失敗には目をつむって度重なる失敗のなかから成功(正解) の法則を探るしかないよね。全き正論である。にも拘らず、私たちの社会は相も変わらず失敗と再チャレンジに不寛容で、持ち前の嫉妬深さでもって他人の足をひっぱってばかり……とつい解釈したくなる弱音を捨てきれない。
どうしてそういうふうになってしまうかというと、思うに、許容可能な誤りの幅が人によって違うので、甲にとっての猶予ある試みのひとつが乙にとってはもう許せない、つまりは度を越しているように見えるからではないか。0から90度まではオーケー、でもそれ以上はオーバー。別の人は60度が限界。また別の人は90度限界は同じでも、そもそも度の単位が違って、一般の1度がその人には10度に等しい。
ここでも測り方が問われている。試行錯誤を評価するのに、みんなが共通して同意できているメートル原器のようなものがないために、各自勝手な尺度をもち出して許せるだの許せないだのわあわあ言っている。断っておけば、そういう状態はたぶん避けようがないし、おそらくは避けるべきでもない。試行錯誤は数値で管理するものではなく、ある身体のなかに積み重なる経験値としてのみ有用だと思うからだ。
測量士がつくった思想
試行錯誤の発想は哲学史のなかでは可謬(かびゅう)主義〈fallibilism〉という名で語られている。科学の営みにとって、これをやれば必ず上手くいく、一発で真理を摑める、という都合のいいあんちょこはない。ならば、失敗を繰り返しながら、その反省のなかで暫定的な正しさを仮の足場に、一歩一歩漸進で前進するしかない。そして、この姿勢を大きく取り込んだのが、19世紀後半のアメリカで誕生したプラグマティズムという知的潮流だった。だから、プラグマティズムの核には実は測り方の難問が眠っているように見える。
それを教えてくれたのは、戦後に活躍した哲学者のひとり、鶴見俊輔の『たまたま、この世界に生まれて』 (編集グループSURE、2007年) という書物だ。戦前、アメリカに留学して本場プラグマティズムを学んだ鶴見は、戦争が終わった27歳のとき『アメリカ哲学』 (世界評論社、1950年) という著書を刊行した。『たまたま、この世界に生まれて』はそこから50年以上経ったあと、かつての若書きを改めてふりかえった座談会の記録となっている。
鶴見はいう。プラグマティズム史を綴るうえで欠かせない、森で自給自足生活を行ったヘンリー・D・ソローも、プラグマティズムの開祖となったチャールズ・S・パースも、プラグマティズムを社会理論にまで高めたジョージ・H・ミードも、皆測量士の仕事を経験しながらその思想をあたためていった。なぜ測量か。新大陸アメリカとはかつてはその全体像をつまびらかにしない未知の土地であり、測ることがただちにビジネスになる歴史的背景があったからだ。ここにはプラグマティズムの帰結主義的な性格、つまり、前もって不動のルールがあってそれに則って現実がつくられているのではなく、帰結 (現実)の積み重ねがルールなるものをあとからかたちづくっているとする特徴性とのつながりを読み取れるかもしれない。
自分が納得できるためのハカリを
誤りをもし未来に有効活用したいのならば、“誰しも間違えることがあるのだからくよくよするな”といった口当たりのいい一般的な人生訓として昇華してしまうのではなく、自分が犯してしまった誤りの度合いや程度を正確に測ろうとする、自分だけの測量士になることを心がけなければならない。
注意してほしいのは、その測量行為にはお手製のハカリを用いざるを得ず、決して普遍性をもてない、他人から発される異議ありの一声を完全に撥ね退けることのできない臆病な経験則にとどまるだろうということだ。他人の説得に失敗する確実性なき法則に価値はないか。いや、他人を説得できずとも、自分を説得できる、納得という自己説得ができる。外からの物差しの受け売りは客観的な正しさの後ろ盾を与えてはくれるが、必ずしも私がそれに納得できるわけではない。「私の人生」のユニークさはどんな凡庸な失敗も汎用性を欠くユニークな失敗に変換してしまうからだ。だから、身をもってしくじるあまたの失敗を本当の意味で我がものとするには、それを測るハカリもまたユニークな生成を経なければならない。
絶対に正しいかどうかは別にして、ひとまずは頼りになる経験=法則を胸の内に宿すとき、レディメイドな人生訓ともデータ的エビデンス主義とも違う、奥行きのある勇気がわいてくる。
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