栃木県宇都宮市・大谷町にある「大谷資料館」は、大谷石の採掘場を生かして、1979年に資料館として開館した。現在ではアート作品の展示やイベントの会場、映画のロケ撮影地などとしても使用され、フォトスポットとして若者にも人気な施設だ。石を運ぶための階段や、石の性質に合わせた通路など、その場の状況に沿いながらつくられていったという館内は、まるで神殿や洞窟のような一種の神秘ささえ感じられる。大久保恭利館長に、石とまちの歴史や施設ならではの体験について話を聞いた。
(この記事は2024年12月に発行された『XD MAGAZINE VOL.08』より転載しています)

大久保恭利(おおくぼ・やすとし)
栃木県宇都宮市生まれ。大学卒業後、市場、ホテル業、車販売業などを経て、大谷資料館に勤務。2021年より大谷資料館館長を務める。
世界でも希少な地下の大空間
大谷町は栃木県宇都宮市から北西約7kmのところにある小さな町。このあたり一帯で採取される石が一般的に大谷石と呼ばれている。大谷石は日本列島の大半が海中にあった約2,300万年前の噴火による火山灰が堆積した流紋岩系凝灰岩で、東西に約8km、南北に6kmにわたって分布する。その埋蔵量は約6億トンと推定され、これほど大規模な採掘地は珍しい。
大谷資料館は大谷石を堀り出したことによってできた巨大な地下空間をそのまま展示室として使った野外博物館だ。この大空間がどのような歴史を辿ってきたのか、2021年から館長を務める大久保恭利さんに話を伺った。
大久保さん「採掘場の中でも、最もこの場所を特別にしているのは、地下の大空間だと思います。深さは30mから、最も深い部分は60mにも及びます。海外から来たお客さんが石の国イタリアにもこんなに深い地下空間はないと、驚かれていました。
この採掘場は1919年から掘られ始め、採掘が終了したのが1989年ですから、約70年間で2万m2 (140×150m)、野球場1個分がすっぽり入るほど掘られたことになります。それも、最初の約40年間は人力。手掘りで、ツルハシ1本で掘り進めていました。今でこそ、ボーリング調査で地質を調べられますが、当時は良質な石が出てくるまで掘り下げるしかなく、職人さんの勘だけが頼りでした。ただそれではあまりに非効率なので、大正時代初期に山の中腹から掘り進めてから掘り下げる技術を導入し、増産体制を確立しました。さらに1960年頃に機械化されると、生産効率は格段に向上します」

大谷資料館(おおやしりょうかん)
宇都宮市大谷町を中心産地として採掘された「大谷石」。その採掘の歴史を伝える広大な地下採掘場の中には、手堀り時代の道具や機械化・輸送方法の変遷にまつわる資料が展示されている。現在は、コンサート会場や結婚式会場としても活用されている。
鉱物の伝統的な掘り方は「露天掘り」と呼ばれ、地表から渦を巻くように掘り進めるが、それに対して大谷町では、垂直方向に掘り進める「平場掘り」と水平方向に掘り進める「坑内掘り」を組み合わせた。この画期的な採掘方法によって、天候や昼夜を問わずに採掘することが可能となり、莫大な出荷高と巨大な地下空間が生み出されたのである。大久保さんは続ける。
大久保さん「地下空間がいろんなところにつながっていることもまた刺激的です。一度、立ち入り禁止のところを歩いたことがありますが、まるで迷宮のような坑道を彷徨い、最終的には隣の山に出たのです。ここから宇都宮駅までつながっているという都市伝説を耳にしたことはありましたが、地下の坑道を通して山と山がつながっていることを実感し、衝撃的でした。
それも綺麗に掘られていて、その場の勘で掘ったとは到底思えません。パソコンで図面に起こしてみると、しっかりと柱を残しながら崩れないように掘られていることがよく分かります。あたかも計算され尽くされているようで、昔の人の知恵は本当にすごいと思いました」
言い換えれば、この地下の大空間は、埋蔵量が膨大であったという地形的要因だけでなく、人間の知恵と技術によって実現された場所。洞窟は人間にとって原始的な建築形態といえるが、この採掘場は洞窟の発展系、建築家なき近代建築の一例と言えるのかもしれない。

資料館入口正面。手前の広場も含め、元々は地下だった。坑道が掘り進められて露出し、砂利道になっていたところを大久保さんが館長へ就任後に整備し、カフェ、店舗、トイレになった。
石のまち、大谷町
大久保さん「私は小さな頃から大谷町で育ちました。大学で神奈川県に引っ越し、そのまま就職して結婚。マイホームを建てようかなという頃に、父親が観光業を始めることになり、忙しくなってきたから戻ってこいと言われ、半ば強制的に大谷町に戻ってきました。
もともと実家は、石の加工を得意とする設計施工の会社を営んでおり、50年ほど前に大谷石の採掘をしていた祖父が石の販売を始めてから、ずっと大谷石で商売をしています。その会社を引き継ぎ、栃木郊外の工務店の2代目にすぎなかった父が、まさか別会社を設立してまで観光業をやろうとするなんて思いもしませんでした。
ただ私も小さいときからずっと大谷石に慣れ親しんできましたし、同級生には石屋さんも多く、自宅の加工場で石を転がしたり、石にボールをぶつけたりして遊んでいました。バブルの頃には、多くの観光客で賑わっていた覚えがあります。この辺りで外車を見るなら大谷町と言われるほど景気も良かったため、当時は大谷石に関わる職人さんも1万人ほどいたそうです。
昔、ここで石を掘っていたという90歳を超えた人と話したことがあります。本当かどうか分かりませんが、その人の話だと、半月働いたら半月はお休みで、ずっと酒を飲んで暮らしていた、と。その名残か、今も酒屋さんは多いですね」
親子二代で地元の賑わいを取り戻そうと、家業の専門領域を超えて観光業に乗り出すというのは興味深い。調べてみると、その最盛期は1973年頃、年間の出荷高は89万トン、金額ベースでは約92億円に達していたとの記録がある。大谷石が地域経済を支えていた時代もあったと言っても過言ではなさそうだ。

標準的な石の切り出しサイズは「六十石」と呼ばれ、厚さ6寸×幅10寸×長さ3尺(180×300×900mm)で重さが約150kg 。1本切り出すのに石工は約4,000回もツルハシを振るい、一人の熟練の職人が掘り出せたのは1日10本ほどだったという。
工務店が挑むまちづくり
大久保さん「大谷石はだいたい町の全土で採掘されます。特にこの辺りは縄文時代から歴史が確認されている古い土地で、古墳の土台や石の棺にも大谷石を使っていたそうですが、いつから大谷石と呼ばれているか、はっきりとは分かりません。810年に弘法大師が大谷石を掘ってつくったとされる日本最古の石仏が大谷寺にあるので、その頃には大谷という地名はあったのではないかと思います。採掘が本格的に始まったのは江戸時代の中頃と伝え聞いています。
大谷石の最大の特徴は、空気孔がたくさん空いていること。そのため、通常の石に比べて軽く、吸水性に長けています。また、軟らかくとても個性的な石で、目の粗いものは石畳や塀に、細かいものは河川の護岸擁壁などに使用されてきました。アメリカの有名な建築家フランク・ロイド・ライトが日比谷に帝国ホテルを設計した際、大谷石に目をつけて大々的に使い、それが1923年の関東大震災に耐えたということから、大谷石が教会や美術館など全国各地の建物に採用されるようになりました。
しかし、1970年代をピークに、コンクリートブロックの普及や建材の多様化によって、大谷石産業は衰退していきます。50年ほど経った今、100ヶ所以上あった採掘場も残るは6ヶ所。採掘場を所有しているのは県や市ではなく、山を代々引き継いだ地主が個人で管理しており、大谷石の需要が年々少なくなったため、相次いで廃坑しました。特に2011年の東日本大震災の際、各地で石の塀が崩れたことによって、石のイメージが全般的に落ち、大谷石の需要にも影響がありました。採掘場資料館の前オーナーが買い手を探し始めたのもその頃です。そこで、地元の石に囲まれて育ち生業としている父親が、また町を盛り上げたいと手を挙げたのです。
資料館を残すことで、大谷石の名誉挽回を図りたいというのが父の狙いでした。採掘量は減り、用途も変わったものの、資料館のショップでは鉢植えやコースターも人気です。さらに、日本橋の高島屋や横浜美術館、新しい国立競技場のVIPルームなど、今なおいろんなところでも使われ続けているため、まだまだ大谷石の可能性はあるはずです」

資料館内部から入口を見上げる。館内の年間平均気温は8℃前後で、冷蔵庫の室温と同程度で肌寒い。左手前壁面は機械堀り、右には手掘り跡が残る。
大谷石産業に転機を与えたのは、奇しくも関東大震災と東日本大震災、ふたつの地震で、それぞれが与えた印象は真反対だった。建材は、そのもの自体の質よりも、それにまつわる出来事や先入観にずいぶん左右されてしまう。現在建設中の万博施設の休憩所でも、石を宙に吊るした建築案が物議を醸しているが、専門家がいかに安全性を保証していても、先入観は無視できない。
しかし、たとえイメージが変われども、石そのものの価値は落ちることがない。だからこそ、再びの大谷石のイメージアップを目指して、石の工務店が資料館を引き継いだ。とはいえ、買収後もすぐに軌道に乗ったわけではなかったようだ。
大久保さん「初めの頃は思ったように来場者が見込めず、1日に2、3人足らずでした。どうしたらいいんだろうと思い悩み、まずは、雑木林だったところを駐車場に整備、砂利道だった場所も舗装して、カフェと店舗をつくり、お客さんが過ごしやすいように周辺環境を整えました。
さらに、ここを積極的に撮影場所として貸すことが功を奏したとも思います。実は40年前から、東映が仮面ライダーや特撮ものをここで撮影していて、前のオーナーもスタジオ貸しをしていたのですが、撮影業界には広く知られていなかったので、私たちの代になってから撮影協力に力を入れ始めました。
最も話題を呼んだのは、三代目J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEの撮影地として使用されたときです。これまで当館と接点があまりなかったような若い人に一気に認知してもらうきっかけになりました。他にもさまざまな映画で使われるようになり、今となってはお客さんが増え、海外からの視察も受け入れるほどになりました。
大谷町へは都内から車で2時間ぐらいで来れますし、地下なので天候にも左右されません。石なので耐火性も高く、火を使った撮影もできるため、撮影スタジオとしては優秀だと思います」
石が掘り起こされて役目が終わったはずの地下採掘場。それが今また、別の用途での利用価値が見出されて、人々が戻ってきている。それは、ひとえに石のまちに育ったという自負をもち、石の特徴を熟視している大久保さんご家族だからこそ成し得たことではないだろうか。

石が掘り出されてできた天井高15mの空間。天井付近には、手掘りの跡が残り、壁面には機械でつけられた溝の痕跡が残る。機械化以降、1人あたり1日50本ほど産出できるようになった。
ワクワクを掘り進める
大久保さん「雨が降ると湿気が充満して霧が発生し、雲海のように幻想的な空間になります。冬になると今度は乾燥して白っぽくなり、地下の大空間はまったく違う姿になります。そのため、夏来てくれた人には冬にも来てねと言いますし、晴れの日に来た人には雨の日にまた来てね、と言います。資料館で働いている私自身、春夏秋冬、毎日異なる景色が味わえて、新たな魅力を発見する日々です。
今では資料館に年間40万人ほどが訪れるようになり、おかげさまで客足も伸びてきました。今後もアニメや映画のコンテンツを交えた戦略を考えています。
大谷町にも空き家を再利用したおしゃれなパン屋さんや雑貨屋さん、カフェが増え始め、徐々に若い人が戻ってきているのを実感しますが、まだ宿泊施設も十分ではありませんし、観光業としても伸び代はあるかと思います。良い相乗効果が生まれて、徐々に良い町になってきているのではないでしょうか。
大谷町に暮らす私たちにとって、大谷石が生活の一部であることはずっと変わっていません。これからも大谷石とともに町を育んでいきたいと思います」
最後に、大久保さんにとって掘るとはどういうことか尋ねてみると笑顔で答えてくれた。
大久保さん「私にとって掘るとは、冒険、ワクワクすることですかね」
大久保さんは、子供の頃から大谷石に囲まれて育った。採掘場や加工場は格好の遊び場だったわけだが、数十年経った今、新しい世代の利用者たちとともに、新たな側面を見い出しつつある。その仕掛け人でもある大久保さんは今でもワクワクしながら大谷石とのつながりを日々、模索しているようだ。

奥に石搬出用のスロープが見える。手前には切り石が積まれている。
取材・文/服部真吏 写真/中山保寛
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