またたく間にイノベーションの覇権を握った生成AI。すさまじいスピードで新たなバージョンが更新され、新サービスが次々と話題にのぼる。ビジネス、カルチャー、プライベートと、あらゆる領域に生成AIが定着しはじめている。
AIが仕事や暮らしにとってなくてはならない存在になるかどうか、その過渡期に我々はいる。ここでひとつの事例を取り上げてみたい。2024年、読売新聞が報じた性犯罪加害者の弁護士が、被害者宛ての謝罪文をChatGPTで書いた、というニュースだ。これに関して、「AIの言葉で書かれた謝罪文に不誠実ではないか」とSNS上で論争が巻き起こった。すでに1年以上前の話題だが、AIの本質を未だ捉えきれていないわれわれはまだ、この問題への回答を見いだせていない。
さらに言えば、AIどころか謝罪という行為の意味するところすら、私たちは知らないのではないか。どうやって謝れば、誠実なのか。正しい謝罪とはなんなのか。考えるほどにわからなくなってくる。そこで示唆を与えてくれる、うってつけの本がある。『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』(柏書房、2023年)だ。著者の古田徹也氏は、謝罪をめぐる考察を縦横無尽に行い、現代に生きるわれわれのコミュニケーションのありようをあぶり出した。
とはいえ、この本では「生成AIと謝罪」という問題は触れられていなかった。そこで今あらためて、古田氏とともに「AIと謝罪」というテーマを考えてみたい。
古田徹也
1979年、熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。主な著書に、『言葉の魂の哲学』(講談社)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHK出版)、『言葉なんていらない?』(創元社)など。訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』(講談社)など。
AI謝罪文に、なぜ違和感を抱くのか。
性犯罪の男性加害者が、生成AIを使って謝罪文を書いた。2024年4月、そんなニュースがセンセーショナルに広まった。いきなりだが、読売新聞の報道を引用する。
当初、男に謝罪文を書いてもらったところ、「心を踏みにじってしまい申し訳ありません」という趣旨の一文しかなかった。「反省の気持ちはあると感じたが、(男は)文章を書くのが苦手で、とても被害者側に渡せる内容ではなかった」と(※筆者注:弁護士は)語る。
弁護士自身が文案を作成するしかないと考え、以前から活用を模索していたチャットGPTに「性犯罪者が提出すべき謝罪文を書いて」と指示してみた。すぐに文案が示され、男が書いた謝罪文より「充実した内容」だったという。
「もっと丁寧な表現に」「改善策も盛り込んで」と繰り返し指示し、被害者の心情に配慮しつつ、男から聞き取った反省の言葉も盛り込んだ。作成にかかった時間は数十分で、出来上がった文章を男に全て手書きしてもらった。
記事中では識者が「(※筆者注:謝罪文が)AIで作られていたとなれば、本人の反省につながらず、被害者は真の反省と認めないと思う」とコメントしており、この点をめぐってSNS上でもさまざまなポストが飛び交った。この件について、『謝罪論』の著者である哲学者・古田徹也氏に訊いてみた。
古田氏「私もこのニュースは気になっていたのですが、その後続報もなく、不思議な報道でしたね。そもそもこの担当弁護士の方は、検察や被害者に対して、謝罪文を書く際にChatGPTを利用したことを伏せている。それならばなぜ、この事実を記者が知るに至ったのか。そこがまず気になりました。ですが、そこは明らかにされていないので、ここでは論点をしぼります。この弁護士の方は、今後も機会があれば、AIを使って謝罪文を作成すると言っていますが、実際のところどこまでAIに書かせるのか、という点が肝心です」

古田徹也 氏
ちなみにこの記事を書いている筆者も、文字起こしや構成案の作成、簡単な見直しで、AIに頼っている。以前よりも効率化された面はたしかにあるが、まだまだ不十分な部分も多い。文章そのものはやはりまだ、自分の手で書いている。
古田さんが問題にしているのは、まさにここである。AIによる謝罪文も、結局は程度問題なのだ。そして「そもそも代筆という行為は、歴史上ずっと存在してきました」と、古田氏は続ける。
古田氏「政治家がスピーチライターに原稿を書かせ、官僚が大臣の答弁を書くといった代筆は、誰もが知るところです。政治に限らず、司法書士や行政書士に書類を書いてもらうこともあるでしょう。識字率の低い時代には、手紙や書類を『代筆屋』に書いてもらうことも多かった。そして刑事・民事問わず、謝罪文を書く際、クライアントのために弁護士が代筆するケースもあるでしょう」
なのにそのプロセスにAIを取り入れたと聞くと、私たちは違和感を抱いてしまう。その原因は一体なんなのだろうか。

「すみません」で済むときもあれば、頭を下げたりするだけでは駄目なときもある。では、何をすれば謝ったことになるのだろうか。結局のところ、「謝る」とは何をすることなのだろうか。古田氏の著書『謝罪論』では、多様な事例を取り上げながら、「責任」「後悔」「償い」「赦し」「当事者」「誠実さ」といった、謝罪をとりまく重要な概念同士の関係を丹念に解き明かしていく。
謝罪は「終わり」ではなく「始まり」である
古田氏は「その謝罪文の責任を誰が負っているのか。責任の所在が曖昧になることが問題視されているのでは?」と指摘する。
古田氏「謝罪文の作成は、多くの場合、加害者が被害者と向き合って自分の罪を認識するプロセスを含みます。その過程をAIでショートカットし、典型的な謝罪文を書いてしまえば、加害者は自分のしたことを省みることができない。そのうえ、謝罪文がAIで書かれたことを被害者が知るようなことがあれば、自分の被害が軽視されていると感じられ、よりいっそう傷つきかねません」
また、刑事事件における謝罪文の授受は「量刑の判断材料にもなり得るため、戦略的な意図を少なからずはらむ」という点にも注意を促す。ここで考えたいのは「純粋な謝罪とはなんなのか」だ。そもそもそんなものは存在するのか。
この疑問に答えるうえで重要となるアイデアが「懐疑論」だ。これはかんたんに言ってしまえば、私たちは本当の意味で他者の心をわかることはない、という議論である。実際、私たちはしばしば、相手が本当は何を思っているのかわからない、と悩む。謝罪でいえば、謝っている人の言動に接したところで、その人が「本心から」謝っているのかどうか、私たちはすぐに判断できない場合が多い。では、誠実な謝罪は、儚い夢に過ぎないのだろうか。そこで古田氏は謝罪を「点」で捉えるのではなく、「線」で考えるべきだという。
古田氏「謝罪は終わりではなく始まりです。自分の行為によって誰かが傷ついた。その事実に向き合い、これからの人生でどう責任をとっていくのか。謝罪とはそのプロセスの出発点に過ぎません。それは企業の不祥事でも、他の個人的な加害のケースでも同じです」
現代社会で「謝罪」ついて考えるうえで、避けて通れないのが「謝罪会見」だ。不祥事を起こした企業や有名人が頭を下げ、記者の質問に答える。そこでは謝罪がテンプレート化し、会見を見ている側も「あの謝罪会見はよかった/悪かった」と、評論するのが当たり前になっている。そして会見が終われば、ほとんどの人びとが、問題が起こったことすら忘れてしまう。AIに頼る前から、私たちの謝罪はすでに形骸化していた、と言っていいのかもしれない。
古田氏「本来あるべき謝罪会見とは、問題が起こった経緯を詳らかにし、ときに再発防止策なども示しながら、問題によって被害を被った人への補償やケアの見通しを伝えるものです。しかし今私たちが見る謝罪会見の多くは、幕引きや火消しのための儀式になってしまっている。繰り返しになりますが、謝罪はスタートであり、ゴールではありません。謝るところから、加害者と被害者のコミュニケーションが始まるんです」
謝罪の形式性と個別性
謝罪とは「終止符」ではなく「始まり」である。自分の過ちを正しく認識し、それによって不利益を被った人に報いる。そのプロセス全体が謝罪の本質である。古田氏は「このプロセスにAIを活用するのは有意義になり得ます」と語る。
古田氏「自分の過ちを認識し、反省を言葉にするために、AIと対話することはときに有益でしょうね。従来、加害者に反省を促してきたのは、たとえば担当の弁護士や臨床心理士などだったと思われますが、そういった人材もリソースも限られています。その点、AIは時間無制限で対話してくれる。加害者が真に反省して謝罪するためであれば、AIの利用は歓迎されるかもしれません。ただし、少なくともいまのAIは利用者に『媚びる』ところがあります。加害者やその行いを肯定してしまったり、加害者の自己正当化を助長してしまうこともあるでしょう。AIを使うことの作用と副作用に、私たちはよくよく注意しなければなりません」
古田氏は「謝罪にはある程度の形式性も必要」とも語る。ひたすら自分の言葉のみに頼って謝るということは、むしろ無礼になり得るからだ。その点でも、ある種の形式を与えてくれるAIは有益だ。
古田氏「謝罪は、一面では確かに儀礼的行為だと言えます。親しい間柄で遅刻してしまったとか、約束を忘れてしまった場合は『ごめんね』で済むでしょう。しかし仕事の現場でクライアントに対して『ごめん』とは言わない。『大変申し訳ございません』と言葉を変える必要がある。当たり前ですが、こういった形式を踏まえることはとても大切です。そして、そういった一般的なフォーマットを提示するのはAIの得意領域。なので、謝罪文の土台はAIに出力させ、個別具体的な問題については、AIとの対話を通して再認識して言葉にしていく。こういった使い方はこれからもっと一般化していくでしょうね」
ただし、この形式性に拘泥してしまうと、謝罪は熱を失い、冷たいものになってしまう。だから古田氏は「でも、謝罪って別にうまくなくていいんですよ」とただちに付け加える。
古田氏「たどたどしくても“自分で考え抜いた言葉”のほうが、はるかに誠実に響く。むしろ、よく形の整った流暢な謝罪に、人は冷たさを覚えて、不誠実だと感じてしまう。AIに依存しきって完璧な謝罪を目指すのは、本末転倒といえるでしょう。ただ、この『たどたどしさ』すら、形式的なものに回収されかねないのが、謝罪の難しいところではあるのですが……。たとえば、謝罪会見をアレンジするコンサルタントから『誠実に見せるために、慎重に言葉を選んでいるように振る舞いましょう』とか『ここで声を震わせてください』といった演技指導が入るといったかたちを想像してもらうといいでしょう。『これこそ誠実な謝罪だ』という共通理解が得られた瞬間、それすら形式に回収されてしまう。この形式性から逃れるためにも、AIや形式に頼りすぎず、自省するプロセスが必要になってくる。綺麗ごとに聞こえるかもしれませんが、AI時代でも謝罪の本質は変わらないでしょう」
謝罪はクリエイティブな営み?
最近ではチャットやコールセンターにおいてもAIが活用されている。特に電話応答では人間と遜色ない応答ができるようになり、驚きを持って迎えられている。「カスハラ」という言葉が流行る今、AIによるクレーム対応は歓迎ムードだ。だが古田氏は「本来であれば、責任者が表に出て直接謝るべき場面で、AIにこっそり謝罪やクレーム対応をさせてしまうと、それがバレたときのダメージが大きすぎます」と指摘する。
古田氏「謝罪を自動化していることが明るみに出てしまえば、“われわれは顧客の信頼よりも業務の効率化を選んだ“というメッセージを発信したも同然です。もちろん顧客対応の効率化は必要でしょう。クレーム対応でも、簡単な返金や交換の手続きなどであればたしかに機械的に行ってもいいのかもしれない。ただし、自動化することで、顧客とのコミュニケーションのチャンスを失っていることには自覚的になるべきです」
たしかに謝罪は顧客と直接コミュニケーションができる貴重な機会ともいえる。そのチャンスをAIに委ねてしまうことを良しとしていいのか。謝罪をAIに代替させることで、顧客と対話する機会を失っていないか。常に自問する必要があるだろう。
『謝罪論』は、抽象的な議論に終始しない。『半沢直樹』や『北の国から ’92巣立ち』 といったドラマ作品の土下座シーンや、小説『エゴイスト』(著:高山真)のクライマックスなど、さまざまなエンタメ作品を例にとって謝罪を考えたり、また、「花瓶事例」「強盗事例」「トラック事例」といった実際に誰の身にも起こりうる謝罪の場面なども取り上げる。この本の構成そのものが、謝罪とは一般化できるものではなく、個別具体的な一回きりの営みであることを体現しているのだ。本書を読むと、謝罪こそがクリエイティブな行為なのだと思えてくる。
古田氏「謝罪には唯一の正解がないんです。だから、個別の例をつぶさに見て、その都度どのように謝罪するかを考えなくてはいけません。『謝罪論』では、謝罪を〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉に分けています。前者は電車の中で誤って足を踏んでしまったとき、反射的に『すみません』と謝るようなケース。他方で後者の『重い謝罪』は重大な過失などにまつわるもの。この場合はアクシデントの性質や、相手との関係性などを考慮して、まさにそのケースのための個別具体的な謝罪を考えなくてはいけません。どのような謝罪が適切かをよく考え、実際に行動することは、たしかにクリエイティブな営みといってもいいかもしれません」
いくら AI が丁寧な謝罪文を生成できるようになっても、最終的に謝罪を実行し、責任を負うのは人間だ。「自分の言葉に責任を持つ」という常套句が、いまほど重みを帯びる時代はないだろう。
取材・文/安里和哲 写真/タケシタトモヒロ 編集/鶴本浩平(BAKERU)