私たちは“電車が来る時間に駅へ行く”のが当たり前になっている。しかし、それは本当に当然のことなのだろうか。自分の好きなタイミングで、電車、バス、飛行機などあらゆる交通手段を使って自由にどこでも行ける――そんな未来を小田急電鉄が実現しようとしている。キーワードは近年注目が集まる「MaaS」だ。
MaaSとは、“ICTを活用して交通をクラウド化し、公共交通か否か、またその運営主体にかかわらず、マイカー以外のすべての交通手段によるモビリティ(移動)を1つのサービスとしてとらえ、シームレスにつなぐ新たな「移動」の概念”とされる(国土交通省の定義による)。その目的は、テクノロジーを駆使し、移動にまつわる制約を取り払うことにある。そして、国内でMaaSを推進する企業のなかでも、小田急電鉄は存在感を放っている。
MaaSを促進するために、あらゆる交通機関の電子チケットの検索・予約・決済機能などに用いるオープンな共通データ基盤「MaaS Japan」を開発中。他の交通機関を巻き込むことも前提に、すでにJR九州やJapanTaxi、日本航空などが参画を表明した。2019年秋にはアプリをリリース予定で、MaaSの実現に向けた実証実験を開始する。
鉄道事業や不動産事業を主軸とする小田急電鉄が、これほどまでにMaaSを推進するのはなぜか。MaaS Japan拡大の先に、どのような未来を見据えているのか。小田急電鉄で次世代モビリティチームの統括リーダーを務める西村潤也氏に話を聞いた。
「20代の自動車保有率は半数以下」の現実に、鉄道会社が感じた危機
――MaaSに取り組むきっかけはなんだったのでしょうか。
背景には3つの問題がありました。「高齢者の移動」「若年層の出不精」「生産年齢人口の減少」です。
高齢者は、身体的な理由で移動に制限がかかります。車の運転も難しくなるので、いずれは車なしの生活を考えなければいけません。運転できなくなっても、車があるのと同じくらい移動しやすい環境を整える必要があります。
これは個人的にも、非常に課題だと感じているところなんです。近所のスーパーへ出かけたときなどに、おじいちゃんやおばあちゃんがおひとりで車に乗っているのをよく見かけるんですよね。駐車するだけでも一苦労だし、車も旧式。おそらく、昔に買って長く乗っているのでしょう。そのような方がたくさんいて、しかも近い将来、車に頼れなくなる。そんな状態が良いのか悪いのかと言えば、当然良くはないですよね。
――一方で、若年層は車を持たない方が増えています。
そうなんです。今の20代、特に首都圏在住者の自動車の保有率は半数を切っているとも言われています。そもそも外出をしない人も多いんですよね。彼らに対しては、単純に移動の選択肢を増やしても意味がない。だから、MaaSを通じて新たなCXを創出し、移動の楽しみを訴求していく必要があると感じています。
あとは純粋に、既存事業の将来性を見越しての判断でもあります。鉄道のコアユーザーは定期券購入者で、生産年齢人口(※15歳以上65歳未満の人口層)とほぼイコールです。その層が減少の一途をたどる今、定期券購入者も比例して減ります。事業を存続させるために新たな一手を打たなければいけないと考え、MaaSに踏み切った側面もあります。
会いたい時に、会いたい人に、会いに行ける世界へ
――なぜ、MaaS Japanプロジェクトでは他社と積極的に連携しているのでしょうか。
MaaSプロジェクトは「会いたい時に、会いたい人に、会いに行ける」世界を目指しています。その実現は、鉄道やタクシーがメインの小田急グループだけではできません。この世界観に共感していただける企業とは、どんどん連携していきたいと考えています。
――他の交通機関と連携すると、具体的に何が変わるのでしょうか。
たとえば、東京から地方の実家へ帰省する時、小田急線で新宿へ出て、JRを使って羽田空港へ向かい、飛行機で地元に降り立ち、そこからバスやタクシーに乗って……と、あらゆる交通機関を利用しますよね。
これまでは、チケット予約や時刻表の確認は各交通機関ごとにするしかなかった。それらをMaaS Japanのサービス上で一括して対応、完結できるイメージです。自宅から実家までの経路を全て洗い出してくれて、時刻表の確認、予約や決済もできるわけです。
一方で、この理想は今ある交通網だけではまかないきれない現状もあります。地方へ行けば行くほど、交通網が不十分で、どうしても徒歩か車に頼らざるをえない。あるいはバスを使うにしても、自宅からバス停が遠い場合もある。タクシーの場合は予約や配車手続きが必要ですし、遠距離の場合は費用もかさみます。
まだ構想段階ではあるのですが、配車手続きが容易で、なおかつどこからでも利用できるような交通サービスのパッケージを新しく作れないかと模索しています。先日、江の島で自動運転バスと電動車椅子の「WHILL」を組み合わせた実証実験を行いました。バスを降車後に、電動車椅子を利用して目的地へ向かうという使い方を想定しました。
これが実用化されると、ラストワンマイルまで、事前にワンストップで予約できる。本格展開に向けて少しずつ歩みを進めているところです。
――そのような世界が実現されると、より気軽に移動できますね。フットワークが軽くなる人が増えそうです。
この世界観には、私自身の想いも込められています。
私の地元は交通の便が良いとはいえず、母親はどうしても車を持たざるをえない生活を送っています。将来的に母親が車を手放しても「会いたい時に、会いたい人に、会いに行ける」ようになるのが、ひとつの目標なんです。
都市に起こりがちな「自動車多すぎ問題」に切り込む
――MaaS Japanが今秋リリースするアプリについて教えてください。
MaaSアプリには、先ほどお話ししたような、各交通サービスの検索、予約、決済を一括で可能にする機能を実装予定です。また、若年層向けの機能として「箱根フリーパス」のデジタル化を検討しています。箱根フリーパスとは、ケーブルカーやロープウェイ、観光船など箱根エリアの乗り物が何度でも乗り降りできるチケットです。
デジタル化の狙いは大きく2つ。これまで箱根フリーパスは、旅行代理店やコンビニが主な購入場所でした。それをデジタル上で気軽に決済可能とすることで、今までより幅広い層にご利用いただけるかどうか、検証しようと考えています。
そして、新たな顧客体験の提供です。位置情報をもとに近隣の優待施設を提案したり、周辺の観光スポットを巡れたりするような導線設計を考えています。
あとは、まだ構想段階ですが、商業施設で一定額以上のお買い物をしていただいたお客様に、無料の往復バスチケットをアプリ上で配布する機能を搭載できないか検討しています。
特に郊外に住んでいる高齢者は、最寄りの駅までバスで20分ほどのところに住んでいる方が多い。働いていたときは定期券でバスや電車で職場へ行って、休日は車で移動していた。でも定年退職したあとは定期券がないから気軽にバスや電車を利用できず、車を出すのも億劫になりがちです。
たとえば、商業施設で5,000円以上お買い上げいただいたお客様に、駐車場の2時間無料チケットではなく、バスの往復チケットをアプリから付与できればいいのではないかなと。「無料で使えるならバスに乗って出かけてもいいかな」と思っていただければ、外出のハードルが下がりますよね。
現状、小田急グループの商業施設での実施を前提としていますが、集客効果があると実証できれば、グループ以外の施設でもご利用できるようになると思います。
――単なる交通アプリではなく、新たな体験を提供するためのプラットフォームとなるのですね。
そうですね。とはいえまだ模索しているところで、実装する予定の機能が本当に必要とされるものかはわかりません。実証実験を重ねながら、お客様に必要とされる機能は継続し、不要なものは外していきます。お客様の反応を見ながらアップデートを繰り返し、顧客視点に立ったアプリに育てていきたいですね。
MaaSアプリはあくまでもツールのひとつであり、小田急電鉄が提案する新しいライフスタイルを提案するための手段だと捉えています。
――今秋から始まる実証実験では、箱根や新百合ヶ丘というエリアでMaaSアプリが提供されます。観光地だけでなく、郊外の都市も対象としたのはなぜでしょうか。
郊外エリアの移動データから、解決できそうな課題が見えてきたからです。
郊外エリアの平日の交通分担率(※出かける際に交通手段を用いた割合)は、電車やバスなどの公共交通機関の利用率が非常に高い。逆に休日は車の利用率が高く、渋滞が起きています。バスや鉄道はかなり充実しているのですが、休日は家族で車を使って出かける層が多いということですね。つまり、既存の公共交通機関のポテンシャルをフルに活用すれば、休日の渋滞を緩和できるのではないかと考えたんです。
――慢性的な渋滞を、公共交通機関の利用を促進することで解消しようということですね。
そうです。たとえば、自動車で都心から東名高速道路を越えようとすると、海老名SAあたりですごく混みます。それなら、鉄道で海老名駅まで行って、そこからカーシェアした方がスムーズかもしれない。でも、ほとんどの方が自家用車で行くから渋滞してしまう。そこを、公共交通機関でうまく分散できるのではないかと。
すでに、「タイムズカーシェア」と提携し、「小田急レール&カーシェア」サービスを提供しています。PASMOで小田急線を利用されたお客様を対象に、小田急沿線の「対象ステーション」のタイムズカーシェアの利用料金が優待されるサービスです。お得感を出すことで、利用がより促進されればいいなと。
――同じような状況に陥っている地域は全国各所にありそうですね。
都市が抱える交通問題のほとんどは、車が想定よりも多くなっていることで起きています。逆に言えば、車に偏っている移動リソースを公共交通側に振っていけば解決できる。そこは公共交通側の私たちが率先して取り組むべきだと考えています。
次は江の島や鎌倉などの観光地、海老名や本厚木のような中核都市での実施を検討中です。幸い、当社は幅広いエリアに対応している。MaaS導入の効果が高そうなエリアを優先しつつ、徐々に対象地域を拡大していきたいですね。
インフラ事業を、もう一度「顧客視点」のビジネスへ
――ここまでのお話を聞いて、MaaS Japanプロジェクトは生活者の問題解決に徹していると感じました。
インフラというと、事業会社本位なイメージがあると思うんです。
最たるものが時刻表です。時刻表は「時間あたりの乗客者数」を見込んで定められてきました。しかし、これはあくまでも見込みなので、実際の利用状況とは必ずしも合致しません。その結果、混雑や、逆にガラガラ、といった状況が発生するわけです。
もし、デジタル環境で正確な人数がわかるようになれば、究極的には時刻表もいらなくなりますよね。でも、時刻表中心の世界が100年くらい続いてきた。僕たちはもしかしたら、プロダクトアウト型の思考、発信しかできていなかったのかもしれません。
利用する側にとっても、ある程度の我慢が当たり前だと感じている方が多いのではないでしょうか。私は、インフラだからこそ、顧客に寄り添ったサービスを提供するべきだと思うのです。
――顧客ファーストであれということですね。
はい。交通インフラは一般企業と同様にビジネスです。しかし、私はそもそもビジネスとは、人が困っていることを解決するために存在するものだと考えています。課題を解決した対価として報酬をいただく、ということです。
交通機関も、もとをたどれば顧客の「足」を補助するために生まれました。バスや電車があることで、移動時間の大幅な短縮を実現した。料金はその対価です。
ところが、いつからか顧客視点を失い、事業者本位のサービスとなってしまっている面があるのも否めません。そこをMaaSを通じて、交通機関を本来の顧客ファーストなサービスに揺り戻していきたいですね。
執筆/水落絵理香 編集/長谷川賢人 撮影/廣田達也