「今度の休みは、あの場所に行こうかな」
数多くある宿泊施設のなかで、そんなふうに顧客から“選んでもらえる”場所をつくるには、何が大切だろうか。
大都市から離れた地域でサービスを提供している場合、一つ考えなければならないことがある。そこに、“時間をかけてでも訪れるべき価値”があるかどうかだ。
地域の魅力を見極め、連携することができれば、顧客に豊かな体験を届けられる——そのことを強く自覚し、事業を展開しているのが、兵庫県豊岡市の『城崎温泉』にある老舗旅館『西村屋』だ。
地域のリーダー企業とも言える旅館は、どんな宿泊体験を生み出しているのか。そして、「共存共栄」を掲げる温泉地は、どのような体験をつくってきたのか。
歴史的背景から未来の展望まで——西村屋の7代目であり、同社代表取締役社長を務める西村総一郎氏に話を聞いた。
創業160年の西村屋。最大の魅力は「客室係との触れ合い」
城崎温泉全体の宿泊客数は、2018年で62.3万人。うち、『西村屋本館』と『西村屋ホテル招月庭』を運営する西村屋では、二つ合わせて9.6万人の宿泊客を迎えている。
2019年には、経産省の『おもてなし規格認証』の第一弾で、最高位の「紫認証」を獲得した同社。城崎温泉のなかでは最も宿泊料金が高く、“プライスリーダー”としての役割も果たす。
創業160年を数える老舗でありながら、近年は外国語の堪能な社員を増やし、インバウンド施策にも力を入れる。口コミサイト『TripAdvisor』を見ても、世界中の利用者からの評価が高い。木造建築の本館は、現在およそ2割が外国人宿泊客だ。
一方で、宿泊客の多くは関西圏から訪れており、長い歴史のなかで「世代を越えて」再訪する顧客も多いという。建築物としての魅力から料理の内容まで、一つひとつにこだわり、人々を惹きつけてきた西村屋だが、一番の魅力は「客室係との触れ合いにある」と西村氏は話す。
西村氏「私たちの旅館の特徴として、宿泊されるお客様ごとに特定の客室係をつけ、広間ではなく『お部屋での食事』にこだわっていることが挙げられます。
部屋食の提供は時間も手間もかかります。ですが、係とお客様の接点が増やせる。そこで生まれるコミュニケーションを大切にしているんです。直接やりとりを重ねるなかでお客様のことを知り、『求められてはいないが、実は望んでいるかもしれない』サービスを提供するようにしています。
例えば、『先月父が亡くなったので、元気をつけようと思って来ました』とお聞きしたら、お食事に陰膳をご用意させていただいたり、何気ない会話からお誕生日だとわかれば、ちょっとしたプレゼントをしてみたり。『客室係との触れ合い』を喜んでいただけるお客様が非常に多いんですよ」
アナログな部分を大切にするために、デジタルテクノロジーを活用
「客室係との触れ合い」の効果は、顧客からのアンケート回答にも表れている。評価のチェック項目とは別にある、手書きの自由記入欄に記載される内容の7割以上が「◯◯さんにお世話になりました」などの、“人”に関するものだという。
では、どうすれば上質な触れ合いの体験を社員一人ひとりが提供できるのだろうか。同社は新入社員研修で、約2週間かけてビジネスマナーや英会話、華道、茶道、美容、救命救急、衛生などの講習を実施。さらにこの研修には、城崎という地域の魅力を深く知るため、温泉街散策や観光資源でもあるコウノトリの野生復帰に関する取り組み学習などが組み込まれている。
その上で、西村氏は、“察する力”を身に付けることがなによりも重要だと話す。
西村氏「西村屋だけではなく、日本の旅館では『目配り、気配り、心配り』という言葉をよく使います。お客様から言われたサービスだけを提供するのではなく、『こんなことを望んでいらっしゃるだろうな』と察して差し上げる。
この“察する力”は、無形の財産として、旅館のなかで受け継がれていくもの。社員は日々異なるお客様と接するなかで、だんだんと身にまとっていくと考えています。だからこそお客様との触れ合いを十分に持てるように、デジタルテクノロジーを活用して環境を整えているんです」
その一つがシフトコントロールシステムだ。以前は客室の予約が入ると、客室係のシフトを手書きで作成していた。しかしそれでは時間がかかるだけではなく、予約変更があった場合のリアルタイムの情報共有も難しい。シフトコントロールシステムを導入した現在は、予約が入るとその内容に応じ、自動でサービス提供に必要な人数を割り出し、客室係のシフトと照らし合わせることができる。
また、客室係が顧客から聞いた食事や飲み物の好み、細かなエピソードなどは随時データとして記録。社員であればいつでも把握できる仕組みを整えている。再訪した顧客には基本的に以前と同じ客室係が担当者になるように配慮するが、難しい場合も想定し、データを活用してこれまでの関係を踏まえた上での接客を実現可能にしている。
西村氏「お客様との触れ合いなどアナログな部分を大切にするためにも、デジタルテクノロジーを活用することが重要だと思うんです。『あの人のいる旅館にまた来たい』と言っていただけるように何ができるか考える、それが昔も今も変わらず、私たちが目指すところなんです」
ただし、そうした“いち旅館”としての体験を磨くだけでは、「本当の意味での顧客の満足にはつながらない」と西村氏は指摘する。
西村氏「もう一つ重要なのは、置かれた地域と『常に一蓮托生』だという視点です。旅館の繁栄なくして地域の繁栄はなく、地域の繁栄なくして旅館の繁栄はない。
お客様に豊かな体験をしていただくためにも、地域そのものが魅力的な場所になることが、大切です。そして、この『共存共栄』の考え方は、西村屋だけでなく城崎温泉全体が、歴史のなかで育んできた思想なんです」
まち全体を「一つの旅館」と考える城崎温泉
西村屋が旅館を構える『城崎温泉』。大正時代の文豪、志賀直哉が愛したことで有名な地だが、歴史は非常に古く、2020年に開湯1300年を迎える。
そのため、現在74軒が所属する「城崎温泉旅館協同組合」のなかで、西村屋は格別に古い存在ではない。同社が温泉地を代表する存在となった背景には、1925年に城崎を襲った北但大震災(北但馬地震)がある。
同時に、その出来事こそが、まちの「共存共栄」の精神に大きな影響を与えていると西村氏は話す。
西村氏「100年前の地震で、このまちは一度、焼け野原になっています。そのとき、再建の先頭に立ったのが、町長をしていた私の曽祖父(西村屋4代目)でした。
復興にあたって、当時の城崎の人たちは、自らの土地を1割ずつ町に寄付しています。それをもとに道などを広くし、まちのグランドデザインからつくり直しました。この歴史が影響して、今でも『まちに貢献する』という意識が非常に強い温泉地になっているんです」
城崎温泉を象徴するのが、まちを「一つの旅館」と表する言葉だ。
“駅が玄関、道は廊下、旅館が客室、7つある外湯は大浴場”——まち全体で顧客をもてなし、喜んで帰ってもらうことを重視する。そんなアイデンティティを、すべての事業者が持っているという。
西村氏「外湯は、城崎に宿泊されるお客様なら、基本的に何カ所でも入れるようになっています。外湯巡りだけでなく、お客様にはできるだけ旅館からまちへくり出してもらい、色んなものを買ったり食べたりしていただきたいと考えているんです。
『ゆかたの似合うまち』をコンセプトに掲げ、歩いているときに浴衣が着崩れても直せる場所をあちこちにつくったり、『みんなの傘』といって、いつでも誰でも使える傘を駅や外湯に置いたり。そぞろ歩きを楽しみやすいよう、工夫を積み重ねているんですよ」
城崎の旅館の多くは、客室数20以下の小さな規模。だからこそ、多くの事業者が寄り集まって少しずつ資金を出し合い、“公共”の体験を充実させているのだと西村氏は語る。
「共存共栄」のまちを、豊かで楽しい場所として残す観光戦略
だが、同氏が西村屋を継いだ2011年当時は、歴史ある城崎温泉も西村屋も、長引く国内不況の影響を受け、宿泊客数の減少に苦しんでいたという。
2010年の城崎温泉の年間宿泊者数は、2018年より13万人近く少ない49.5万人。そこから、2010年代に大きく顧客数を増加させた要因は、西村氏は大きく二つあると考えている。
一つは、旅行スタイルの変化だ。誰もが自分で情報を得て、行動を選べる時代になった結果、「団体旅行から個人旅行へ」へと観光の中心がシフト。そのなかで、「団体客を自らの施設だけで囲い込む」ような施策をしてこなかった城崎温泉の良さが、“再発見”されることになった。
西村氏「城崎の旅館では、顧客一人ひとりに寄り添って、宿泊の体験、まち歩きの体験を提供してきました。それが今、Web上の口コミなどではっきりと評価が見えるようになり、個人旅行先に選んでいただきやすくなったと考えています」
もう一つは、特に欧米をターゲットとしたインバウンド向けの施策の効果だ。
豊岡市とも連携して観光プロモーションを積極的に行い、2013年のフランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』には2つ星の評価で掲載。以前は温泉地全体でゼロに近い状況だった海外からの宿泊数は、現在5万人近くまで増加している。
これは、「共存共栄」のアイデンティティがあるからこそ生まれた、地域としての新たな生存戦略だった。
西村氏「私が2011年に西村屋の代表に就任したとき、城崎温泉の目標として『2020年、宿泊客数80万人』を掲げました。城崎の人口減少と高齢化予測から、それだけの人数が訪れていただけるまちになることが、『皆でつくってきた地域を、健全な形で次の世代に渡す』ためには必要だとわかったからです。
国内の旅行客数は今後減っていきますが、世界全体で見ればまだまだ増える。これからもまちが豊かで楽しい場所であるには、城崎温泉を『世界的な観光地にしていくこと』が必須だと考えました」
未来に向けて、今力を入れていることが二つあるという。一つは、城崎にある店舗や、アクティビティの情報をさらに国内外へ発信していくこと。2019年には、多言語対応のウェブアプリ「城崎温泉ガイド(Onsen Cloud)」の提供を開始して、顧客とのタッチポイントを増やしている。もう一つが、「滞在日数」を伸ばしてもらう施策だ。
西村氏「『長く滞在したい』と思っていただくには、城崎の体験が充実していることは当然ながら、周辺観光地との連携も重要です。具体的には、近隣の城下町である出石(いずし)と城崎を結ぶ交通の整備を進めています。
城崎温泉がこの地方のハブとなれば、訪れるお客様に新しい選択肢を提案できる。これを重ねていくことで、より多くの方に城崎の『ファン』となってもらえると考えているんです」
美しいまち並みを“磨く”ための、新たなグランドデザイン
いち旅館としての宿泊体験と、地域全体としての滞在体験、どちらかの価値だけに依ることなく「双方を高める必要がある」と話す西村氏。地域を代表する存在として、自社でも新たな取り組みに乗り出している。
その一つが、まちのなかに昨年オープンさせた『さんぽう西村屋 本店』だ。
1階にあるのは、地域の食文化が楽しめる「さんぽうダイニング」。ベジタリアン向けの和食を提供することで、そうした食事に対応できない旅館へのフォローの役割も担うという。“さんぽう”の名は、西村屋のおもてなしのルーツである「三方良し」の精神を表したものであると同時に、温泉地を守る氏神様『三宝荒神』への感謝の心が込められたものだ。
西村氏「お客様に喜んでいただいて、まちにとっても価値があり、地域の生産者にも喜んでもらえる。温泉地全体として飲食店不足も見られるなかで、地域を牽引する企業としてできることを考えてつくりました」
ダイニング横には物販店「さんぽうギフト」、2階には散策中に休憩できる「さんぽうサロン」も備えられている。まち中での豊かな体験を生み出そうとする、西村氏の新たなチャレンジだ。
また、同氏は城崎温泉交通環境改善協議会の会長としても、これまでにない未来図を描いている。2025〜27年頃を目指して進める、地域のグランドデザインの再設計だ。「まち中に車が入らない」温泉地体験の実現を考えているという。
西村氏「お客様の車はまちの外の駐車場に駐めていただき、そことまちの中を、自動運転のEVバスのような公共交通でつなごうと考えています。なぜなら、ゆったりまちの中を歩く体験が、城崎温泉の魅力だからです。まち中に車が入らないことで、安心して歩くことができ、まちそのものの魅力が味わいやすくなると思うんです」
西村氏が確信を持って語る背景は、顧客から寄せられる城崎温泉の「まち並み」への評価がある。特に海外から訪れる宿泊客は、建物の並び、まち中の柳や川の風景、そこを歩く浴衣を着た人たちなどを見て、「とても美しい」と話すという。
西村氏「お客様は、浴衣を着て、城崎の風景の一部になれることを非常に喜ばれます。風景の一部になることが城崎温泉ならではの魅力であり、『一つの旅館』として、これからもお客様に届けるべき価値なんです。
私たち大切にすべきは、これまでに大事にしてきたまちや自然の美しさ、共存共栄の思想だと思うんですね。いち事業者として、それを守る方法を考え、次の世代に受け渡していくことが、城崎が生み出してきた豊かな体験を、さらに多くの人々に届けることになるのではと考えています」
執筆/佐々木将史 編集/木村和博 撮影/其田有輝也