休日の昼、読書のお供に。平日の夜、1日を振り返る時に。
さまざまな生活のシーンで、コーヒーは私たちの日常をそっと彩ってくれる。その香りだけで少し心が落ち着く人もいるだろう。
このコーヒーのある体験をどうすればよりよいものにできるか。その1点を突き詰め続けている会社がある。青いボトルをかたどったロゴの、あの企業だ。
強烈なブランドを構築したコーヒーブランド
2015年に日本へ上陸した、アメリカ・カリフォルニア州オークランド発のコーヒーブランド『ブルーボトルコーヒー(以下・ブルーボトル)』。
熱烈なコーヒー愛を持つ、創業者のジェームス・フリーマン氏のこだわりからスタートした同社は、選び抜いた豆の個性を最大限に引き出すために浅煎りで焙煎し、一杯ずつ丁寧にサーブするスタイルが高い評価を集め、2018年8月現在アメリカと日本に59店舗を展開する。
ブランド力やものづくりへのこだわり、シリコンバレーのIT企業的な成長を表す意味で「コーヒー界のアップル」とも呼ばれる。
コーヒーの味はもちろんのこと、店舗のデザインや顧客との向き合い方にいたるまであらゆる側面にそのこだわりは垣間見える。それはどの店舗でも、どのようなシーンでも変わらない。ここまで徹底された体験を提供できるブランドはそう多くないはずだ。
なぜブルーボトルは強いこだわりとブランドを維持し続けられるのだろうか。そして、顧客との接点となる店舗はどのような思想で形作られているのだろうか。
ブルーボトルの店舗で日々、顧客にコーヒーをサーブしているリードバリスタに話を聞いた。
オーストラリアで見た地域に根ざしたコーヒーの姿
品川カフェでリードバリスタを務める高橋翔氏は2015年、青山カフェのオープニングメンバーとしてブルーボトルに入社した。前職でもバリスタとして活動しており、そのキャリアをスタートしたのは、オーストラリアのカフェカルチャーがきっかけだったという。
高橋「ワーキングホリデーで行っていたオーストラリアでカフェが地域に根付いている姿に、すごく心を惹かれたんです。地元の人に愛され、その人たちとの関係性の中でお店が成立している。歳をとっても長く楽しく続けられる仕事だと思い、この道を志しました」
地域に根ざし、関係性を重視する職業のあり方に惹かれた高橋氏は帰国後、カフェで働き始める。そのお店で2年近くバリスタとしてのキャリアを積み上げる日々の中で、たまたま雑誌で紹介されていたブルーボトルのお店を目にした。
高橋「ステンレスを基調にした内装の中に、ドリッパーとコーヒーだけがあるすごくシンプルなお店でした。まだ日本進出前で海外のお店だったんですが、その姿はすごく印象に残っていましたね。すると、その数ヶ月後にブルーボトルが日本に来るというニュースが出て、求人を目にしました。その求人には“コーヒーを仕事にしながら幸せを創造する”といったことが書いてあり、ここで働きたい!とすぐに応募したんです」
高橋氏は2015年3月に開業する青山店のオープニングメンバーとしてブルーボトルに入社した。当時のブルーボトルは日本上陸直後。連日多くの人々がその味と体験を楽しみに訪れた。
ブルーボトルにおいて、バリスタは体験の肝であり、店舗の花形と言っても過言ではない。顧客はコーヒーを心待ちにしつつ、目の前で1杯ずつサーブする手さばきに目を奪われる。
高橋氏は期待に胸を膨らませて店舗を訪れる顧客と向きあいながら、どうすれば自身が憧れたブルーボトルらしいコーヒーや体験を提供できるか、考え続けた。
その経験を経て、現在は品川カフェのリードバリスタに就任。コーヒーを淹れ、顧客と向き合いつつ、チームの育成やマネジメントにも尽力している。
彼が考える、ブルーボトルらしさとは、何なのだろうか。
ブルーボトルのすべては理念に立ち返る
ブルーボトルでは、すべてのバリスタが同じようにおいしいコーヒーを淹れられる。
これは、分量や抽出時間などを明確に定義し、高いレベルの再現性を提供できるようコーヒーを科学しているからに他ならない。ただ、“ブルーボトルらしさ”の本質はおいしさだけにとどまらない。
高橋氏が“ブルーボトルらしさ”を考える上でもっとも大切にし、スタッフの育成においてメンバーにも伝えているのは“企業理念”だ。こう聞くと、ありふれたことのように感じられるが、ブルーボトルは何が違うのだろう。
高橋「ブルーボトルでは、『デリシャスネス(おいしさ)』『ホスピタリティ(おもてなし)』『サステナビリティ(持続可能性)』の3つを企業理念に置いています。理念というと少し遠いもののように感じますが、バリスタを含めたすべてのメンバーはこの理念にもとづいて行動します。逆に言えば、すべての行動がこの理念に繋がっていることが求められている。コーヒーを淹れ、お客様に向き合いながら、ブルーボトルらしさを常に考えているんです」
理念はすべての行動、あり方の指針となると高橋氏は語る。ただ掲げるだけでなく、現場に存在するあらゆるものごとは理念を反映したものでなければいけない。メンバーにはこの理念を体現できるように自ら考え抜くことが求められる。
高橋「具体的にどう接客すべきかは規定しません。それぞれのスタッフが常に考えるのです。伝えるのは、3つの理念の真意や、私たちはなぜこの3つを大切にしているのか、です。具体的な行動はそれぞれが実践しながら、日々の仕事の中で自分たちの価値観と摺り合わせていくんです」
“どうエンゲージメントを高められるか”が “らしさ”につながる
企業理念を伝え、細かな行動は規定せず、スタッフそれぞれがブルーボトルらしい行動を考える。理念を体現するために必要なのは、考え続ける機会の提供と、なぜこだわるのかという想いを知ることであり、細かなルールやマニュアルではない。スタッフが自律的に考え行動し、状況に応じて改善を重ねることがブランド体験を高いレベルで保っている。
ゆえに、同社がスタッフに向け規定するものは、理念を体現する上で必要だと判断された限られたものだけだ。
たとえば、一杯のコーヒーを提供するまでのプロセスにおいて、一つひとつの行動はそれぞれのスタッフに任される。ただ、その善し悪しを考える上では、お客様に信頼される関係が築けているか(エンゲージできているか)という考え方が提供されている。
高橋「我々がお客様の体験を考えるときは“どうすればエンゲージできるか”という視点で考えます。たとえば、いつも同じドリンクを頼むお客様に暑い日は違うドリンクを提案してみたり、少し遅い時間にいらっしゃったお客様には甘いフードを提案してみたりなど。そのお客様が今どういう状況なのか?どういうものを欲しているのか?を見つけ、提供するのが僕たちの仕事であり、ブルーボトルの体験を作っているんです」
来店する人によって動機や期待値は異なる。それぞれのニーズを想像し、パーソナライズされたサービスを提供する。これも各々のスタッフが自律的に行動することで実現するブルーボトル体験のひとつだ。
筆者自身何度かブルーボトルへ足を運んだが、どの店舗でも常に高い満足度を提供してくれる。シーンを問わない。
打ち合わせの間に急ぎで入った新宿カフェ。
休日にのんびりしようと訪れた清澄白河ロースタリー&カフェ。
どの店舗でも、その時の自分のモードにフィットした、適切な体験ができる。どの店舗、どんなシーンでも、同じように高い満足度を受けられることは珍しい。マニュアルで画一的に管理をしていてはこうした体験は提供できないだろう。
高橋「バリスタがお伝えする豆の話を楽しみに通ってくださる方もいれば、一人静かにゆっくりコーヒーを楽しみたいという方も、急いでいる方もいます。それぞれのお客様が望むかたちでサービスを提供することを大切にしています」
ブルーボトルらしい体験は、他人主語から生まれる
一人ひとりに合わせて、ホスピタリティを発揮する。飲食業において、間違いなく重要なことだ。とはいえ、新しく入ったスタッフが企業理念を理解し、実際の行動に落としながら、身体に染み込ませるためには一定の時間がかかる。むしろ、規定がない分苦労も多いだろう。
ただブルーボトルではその負荷を最小限にするための施策も抜かりない。スタッフがブルーボトルらしい体験を自主的に考えられるようにするために必要な、コミュニケーションのあり方や考え方が提供されているという。そういった枠組みを活用しつつ、日々の業務の中でブルーボトルらしさを考え続ける機会を用意している。
高橋「たとえば、店内におけるお客様との接点を5つに分解し、それぞれで何をできるか考えるワークがあります。これは入社時に1回だけやるものではなく、定期的におこない常に改善を繰り返すものです。ほかにも、日々の会話の中では『あ、今のすごくよかったよ』とか、『もうちょっとこうしたら、よりお客様がよい体験をできるかもしれないね』といったフィードバックをお互い意識的に行うことも大切にしています。その上で、どうすればブルーボトルらしい体験を提供できるかというディスカッションの時間を、ワークと同様定期的にとっています。こういった日々の積み重ねによって、徐々にその“らしさ”が擦り合わされていくのだと思います」
理念の共有、日々のコミュニケーションの中での擦り合わせを通じて、少しずつ“ブルーボトルらしいバリスタ”へと変わっていく。
高橋氏がさまざまなバリスタを見る中で、ブルーボトルらしい体験を提供できるようになる、行動が変わる瞬間があるという。それは「主語」が変わるときだ。
高橋「自分主語からお店主語に変わる瞬間があるんです。最初は『僕が』こうしたい、『僕が』おいしいコーヒーを淹れたいといった自分主語のことが多い。
それが、ブルーボトルらしい体験を問われ続けることで、自らどうすればよい体験を提供できるかを考えるようになり『お客様が』こうなってほしい、『チームが』こうしたい『お店が』こうしたいといった他人主語になる。
最終的にお客様が満足で帰ってくれたらOKというふうに、意識が変わってくるんです。その主語が変わる瞬間から、その人はブルーボトルらしい体験を提供できる人になるんです」
同社のブランドを支え体験の肝となるバリスタは、企業理念から自律的に「ブルーボトルらしい体験」を考える。それを繰り返し、チームで擦り合わせていくことが満足度の高い体験とブランド力へとつながっているのだ。
すべてをマニュアル化するのは簡単だ。ただ、マニュアルに落とすことはそれぞれの行動を制限してしまうことにもつながる。顧客の気持ちを読み解きそれぞれにパーソナライズした体験を提供するためには、マニュアルではなく、自律性こそが重要となる。自律的な行動の積み重ねが、「ブルーボトルらしい体験」を作り上げていく。
続く後編では、ブルーボトルコーヒーVP of Experience/ブルーボトルコーヒージャパン取締役の井川沙紀氏に、体験の戦略を伺っていく。
撮影/加藤甫