2022年3月15日、日本の情報学研究を推進する研究機関からあるデータセットが公開された。
提供元は、『プロメア』や『キルラキル』などのヒット作を手がけるアニメーションスタジオ〈TRIGGER〉。同社の数あるヒット作のなかでも、オリジナルとして制作された短編劇場作品『リトルウィッチアカデミア』の制作データが提供され、大学や研究機関の学術研究に利用できるようになった。
学術研究とアニメーションという一見距離があるように見える二分野であるものの、この取り組みについて国立情報学研究所(以下NII:大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 国立情報学研究所)の教授、大山敬三氏は「双方にとって新しい扉を開く第一歩になるのでは」と語る。
こうした取り組みの背景には研究所、アニメーションスタジオの双方にどのような展望があり、実現に漕ぎ着けたのか。そして、この取り組みで、一体何が生まれうるのか。
NIIのコンテンツ科学研究系の教授である大山敬三氏と、TRIGGERの取締役である舛本和也氏に詳しく聞いた。
「面白そう」の二つ返事でスタート
データセットの提供を開始したNIIは、2020年に設立20周年を迎えた情報学における国内唯一の学術総合研究所。「情報学」の分野を切り開く未来の価値を創造するために創設された研究機関であり、今回はアニメーションスタジオのTRIGGERと異例のタッグを組んだ。3月にNIIによって公開されたデータセットは、アニメーションの制作過程で生まれる様々な資料をアーカイブしたもの。シナリオ、絵コンテ、美術など、「中間生産物」と呼ばれるそうした資料の数々は通常、表に出るものではなく、作品の制作後には廃棄されることも多いと舛本氏は語る。なぜ資料の公開に至ったのか、まずは背景から聞いた。
舛本「きっかけは4、5年前に参加した異業種交流会に遡るのですが、そこでプレイドの秋山さんに出会いました。以降色々なことを秋山さんと話し合うようになり、そのなかでNIIの取り組みを紹介していただきました。その時に、NIIは様々なデータや資料を研究者向けに公開されていて、まだアニメーションにまつわる資料はない、と伺ったのです。
大山「NIIでは、画像やテキストなどの膨大なデータセットを研究者向けに配布して研究に使用していただいているのですが、今回のプロジェクト以前はアニメーションにまつわる素材はなく、そのため研究も活発ではありませんでした。ですが、情報学は実際に社会との関わりをもって発展していく学問。素材が提供されることでテーマを見出せる研究者もいるのではないか、と思い、私も期待をもってスタートしました。また、日本のアニメーションは世界から評価されている分野であるにも関わらず、労働環境や賃金などの問題を耳にすることもあり、アカデミックなアプローチで何か貢献できるのではないかと期待しています」
プロジェクトは開始したものの、中間生産物は甚大な量にのぼる。舛本氏の知人であるワクワーク社の中山氏の全面的な協力によって、一つひとつ手作業でスキャンされ、数年の準備をもって公開に至ったという。しかしなぜ『リトルウィッチアカデミア』が選ばれたのか。
舛本「アニメ制作において、中間生産物は権利関係が複雑です。製作委員会方式で作られたものであれば、制作の中で生まれたものも権利は委員会に属しますし、特定のクライアントがいれば権利をもつのはクライアント。TRIGGERの作品だと99%は権利がクライアントにあるので、データセットを提供するにも、スタジオが自主的に制作した作品しかスムーズに提供できないんです。ただし、『リトルウィッチアカデミア』のアニメミライ版(現在はあにめのたね)*は文化庁の協力を得て制作したオリジナル作品なので、中間生産物の権利も弊社にありました。これをスキャンしさえすればデータを提供できるので、この作品に決まりました」
*アニメミライ…2010年より実施されている文化庁の『若手アニメーター等人材育成事業』の通称。若手アニメーターや制作母体の発展を促し、人材育成や発表機会の確保などのサポートを行う。2021年からは愛称を「あにめのたね」に変更し、継続している。
4つの課題と、研究から生まれる無数の可能性
ワクワーク社の中山氏、プレイドの秋山氏の協力を得て、無事データセットの公開を実現。しかし、データセットの公開によって、どのような研究が生まれる可能性があり、そして研究がアニメ業界にどう影響を与えるのか。舛本氏はアニメーション業界全体を見据えながら、直面している課題を語る。
舛本「面白そう!が第一としてあったのは間違いないですが、アニメーション業界に長くいる私からして、業界全体のシステムや習慣は見直さなければならない、と思っていました。時代の発展とともに、アニメーションを視聴する環境、視聴者の規模、表現の可能性などはめまぐるしく変わっていますが、同時に、解決しなければいけない課題が増えているのも間違いないのではないでしょうか」
舛本氏が考えるアニメーション制作における課題とは?
1. テレビ放送に最適化された制作システム
「背景、原画などのセクションに分かれて、各プロフェッショナルが作ったものを、1話2,30分の作品にまとめあげる。こうしたアニメ制作のシステムは、何十年もかけて完璧なシステムができているとは思うんです。ですが、これはあくまでもテレビ放送に対応したもので、現代に最適なかたちではない。さらに、年々リッチな表現ができるようになり、この“完璧なシステム”ではカバーしきれない工程が増えています」
2. 変わらない人件費
「TRIGGERの場合、30分のアニメ制作でおよそ200〜300人のスタッフが関わっています。しかし、表現が年々幅広くなることで関わってもらう人の数も増え続けていて……。下請けとして制作を行う場合、頂く制作費はその変化と同じスピードでは変わっていかないわけです。変わりつつある部分もありますが、一人あたりに割ける人件費は年々増えてはいかず、こうした状況が30年ほど続いてしまっています」
3. 制作量に対するリソース不足
「アニメーションは時間を決めて生産量をあげればいいだけの商業ではなく、どれほど面白いものが作れるか、という時間には換算しづらい業種。さらに、表現が豊かになったことで求められるスキルもレベルが上がってきているので、海外の方を交えて効率的に作ろうにも、まずは互いの文化を理解し合うところからスタートするので、足りないリソースを早急に解決する手立てにはなりづらい、というのが現状です」
4. 若手育成システムの不足
「若い人の人口は減少を辿っているにも関わらず、求められるスキルは上がり続けています。そのため、アニメ業界で働くハードルはどんどん高くなっている状況。育成に関しても、たとえば昔は新人からプロになるのも1年で可能だったのが、今は3年かかって育成できるかどうか、というほど差がある。育成しようにも指導者がおらず、指導者を作る構造も、体制を築く余裕も作れていない、という課題があります」
課題が山積するなかで、活路を見出す方法のひとつが学術研究であり、今回のデータセットの提供は大きな一歩ではないか、と大山氏は語る。
大山「データセットの提供がなぜ重要かというと、ひとつは再現性にあります。たとえば、研究者が独自に入手したあるデータを使って研究した結果がこれでした、と発表しても、その研究に用いられたデータが公なものでない限り、検証を行うのも難しく、学術研究で重要視される再現性の保証が難しくなります。
例えるなら、料理に使う材料(=データセット)が同じじゃないと、同じレシピ(=技術)を使って料理しても、味が変わってしまう。それだと、このレシピの是非について、みんなで話し合いづらいですよね。つまり、有用な研究にはなりづらい。なので、私たちがやっているのは、研究者向けに同じ材料を提供するので、新しいレシピを作るきっかけにしてください、ということです。今回のデータセットを様々な研究者が触れるようになることで、また新たなレシピが生まれ、そのレシピが生まれたことで改良され、是正され…といった動きが可能になるんですね。
どのような研究が生まれるかというと、『人がやっていた作業工程を効率化・自動化する』というのは分かりやすい研究課題ですが、実は何が出てくるか分からないところに面白みや大きく発展する可能性があるのではないか、と思います。小さな思いつきで始まった研究でも、現場からすれば実は素晴らしいアイデアだったり、その研究がきっかけで活性化して10年後に花を咲かせたり、それくらい様々な展開があるものなんです」
舛本「確かに、作業的な工程を短縮するのはもちろんありがたいです。ですが、今回の取り組みにおいてはもっと長い目で考えていて。冒頭にアニメーション業界を村社会と表現しましたが、私たちが体制やシステムの改善に動いても、近視眼的な解決方法しか思いつかず、 アイデアの幅が狭まってしまう。その“村”を第三者に見ていただくことで、こうすればいいんじゃないか、と外からアイデアを出していただける、そんなことが起こってくれたらいいなと思っています。
作業の効率化に限らず、業界構造や細かなデータの保存方法など、本筋とは少し違う部分にも可能性があるのかもしれません。なので、研究に取り組んでもらうためには、なるべく私たちの身近にあるものを開陳して、“村”にアプローチしていくことを大事にしなければいけないなと思っていて、何が出てくるのか楽しみですね」
短期的な課題を解決するだけでなく、まずは村社会的な構造になっているアニメーション業界に目を向けてもらい、より大きな変革を想像する。データセットの提供ひとつで、研究者サイドに大きく門戸が開かれた。
大山「これまではアニメーションを研究したいと思っても、これだけのデータセットを手に入れるのは至難の業。そもそもこうしたデータセットをある研究者が触ろうとしても、アニメーションスタジオと仲良くなって触らせてもらうまでに数年かかる。それくらい地道なところからスタートして、さらに、それは公開されていないデータセットなのである意味“趣味的”な研究に留まらざるをえない。
ですが、データセットが公開されていることで、研究成果として発表した際の再現性も検証できるようになります。さらに教育の面では、大学などの研究機関でみんなで寄ってたかってデータを直に触れるようになる。研究者だけでなく、学生たちがそこから卒業論文や修士論文を生み出す、という使い方も可能になります。若い研究者の育成という観点でも、非常に効果があると思います」
舛本「そうですね。先にお話ししたアニメーションの“完璧なシステム”には功罪があって。それはシンプルな構造を築いてきたからこそ、製造工程は分かりやすい。線を描いて、色を塗って、ムービーにして音を入れて……と。
ですが、この構造によってアウトプットが制約されているとも言えるんですね。たとえば、AIの技術を駆使して製造工程さえ変えられるようなアイデアがあるとすごくありがたくて。ディズニーやピクサーは作品ありきでスタッフが集ったり、製造工程を変えたり、作り方の研究がされていたり……。アプローチの取り方では敵わないな、と思うんです。
従来はテレビでの放送に合わせて作ってきましたが、映像配信サービスだとまたルールが違いますよね。CMが入らなくて、オープニングやエンディングがなくてもいい。さらに時間も30分に限らなくてもいい。それほど大きな変化が起こっているからこそ、まだまだ幅広い作品が作れるはずだと信じているんです」
大山「若い人はそうした変化への対応も早いですからね。2、3年で新しいモデルを出してくることもあるので、新しく生まれた値観を叩くのではなく育てていくことで、アニメーション業界、ひいては世の中はまた変わっていくのではないでしょうか」
執筆/梶谷 勇介 撮影/タケシタトモヒロ 編集/鶴本浩平(BAKERU)