サラリーマンの街として有名な新橋駅のほど近くにあるビルの地下1階に、「有薫酒蔵」という店がある。
1978年創業の老舗酒場で、毎日九州から空輸される新鮮な食材を使った、九州郷土料理を楽しめる人気の店。しかしなによりも目を引くのが、看板にある「高校よせがきノートの店」というキャッチフレーズだ。日本広しといえど、そんな肩書きの居酒屋は聞いたことがない。
先に種明かしをしてしまうと、そのノートとは、開店から10年ほどが経った頃に、同じ出身校のお客同士が伝言ノートとしてはじめたもの。それが母校のよせがきノートとなって増え続け、今や全国各地から海外まで、高校別になんと3365校分(取材当時)もあるというのだからすごい。
世にも珍しい「高校よせがきノート」の店は、どのような歴史を歩んできたのか。いろいろなお店を巡るのが好きで、ついにはそれが仕事になってしまった酒場ライターの僕、パリッコが実際にお店の料理を楽しみつつお酒を飲みながら、女将である松永洋子氏にゆっくりと伺った。
長年のつながりが支える、自慢の九州郷土料理
店内に入ると、想像以上の光景に圧倒される。広々とした各席をつなぐ通路や壁のいたるところが本棚になっていて、そこに整然とファイリングされたよせがきノートが並び、まるで図書館か、大企業の資料室のような雰囲気なのだ。数字だけを聞いてもピンとこない部分もあったが、3000校以上とは、これほど圧倒的な量なのか。
あまりにも興味深く、早くお話を聞きたい。けれどもまずは生ビール、それから、名物の九州郷土料理を注文し、それをいただきつつにしよう。
女将さんがまずすすめてくれたのが、開店当初からレシピを変えずに手作りしているという「さつまあげ」。これが揚げたてで香ばしく、さつまあげの概念が覆されるほどに身がきめ細かく、ふわふわと甘い。しょうが醤油をつけてかじれば、もうたまらない。
聞けば、企業秘密である魚の種類や配合もすべて開店当初のままとのことで、まさに“店の歴史そのもの”とも言える一品なのだ。
そもそも、有薫酒蔵はどのような歴史を歩んできたのだろうか。
松永氏「話せばすごく長いんですが、九州出身だった母の代の店が、銀座にあったんです。だからうちの店名にも『新橋店』とついてるでしょ。それで、近くの新橋にこの物件が出たときに、主人が『じゃあ自分でも店をやろう』と決めて。それまでの私は、3食昼寝つきの優雅なお嫁さんだったのに、ある日突然『人手が足りないから手伝いに来てくれ』って言われたんですね。それから45年、ここにいます。
いちばん迷惑をかけたのは3人の子供たちですね。最初は期間限定ということで手伝いはじめたんだけど、1週間もお店に立つと仕事に慣れて抜けられなくなるでしょう。とくに真ん中の女の子には、『ママはどうしていつも家にいないの』『いつ帰ってくるの?』って。だからもう、やるならやる、やらないならやらないと決めてしまわないといけないと思って。主人を手伝おうと覚悟を決めましたね」
松永氏「食材だけはね、いまだに九州から送ってもらっています。今はどこにでもなんでもあるでしょう。だけど45年前、『産直』なんて言葉のない時代から、うちはそうしてきたんです。というのは、業者さんっていうのは、長年の付き合いがあるからこそ、目利きのできる人がいい魚を選んで送ってくれるんですよね。そのつながりこそが財産。だからね、うちのお魚は、み~んな美味しいですよ(笑)」
そんな話を聞いてしまっては頼まないわけにはいかないと、奮発した「刺身の盛り合わせ」。ぴかぴかのきびなごの新鮮さ、たこの旨味と弾力、とろりと甘い鯖の身、どれも驚く美味しさで、すっかり九州旅行に来た気分だ。
また、驚いたのがこれまた名物のひとつ「黒豚の串焼き」。旨味を抜かないように、じっくりとゆでこぼして脂を抜き、それから長年継ぎ足されてきたタレに漬けて焼きあげるという手の込んだ一品で、あきらかに、僕が今まで食べてきた豚肉のなかでいちばん柔らかい。いや、柔らかいなんてもんじゃなくて、口のなかに豚の旨味を感じさせたかと思うと、じゅわっと溶けてしまうような。その衝撃の美味しさに驚く僕を見て、「ちょっと大げさなじゃいですか?」と笑うカメラマンさんが、あとでその串焼きを食べ、僕とまったく同じリアクションをしていたのには笑った。
ノートの紡ぐ出会いを見守り続ける
さて、肝心の「高校よせがきノート」についても話を伺いたい。
そのはじまりは1987年。当時の常連さんの「伝言ノートのようなものを作って置いておいてほしい」というひと言がきっかけだった。
当時店に、福岡県の「久留米大学附設高等学校」出身の方がよく来ていた。ある日、その人を訪ね、同じ高校出身の後輩だと言う客が店を訪れたが、その日は会うことができず、帰ってしまった。もちろん、SNSなどで気軽に人を探せる時代ではない。常連さんは後日、その話を聞き、伝言ノートを作ることを思いついたというわけだ。
次第に噂を呼び、その数はどんどん増えて、2009年には1000冊を超えた。そのすべてを、客任せにするのではなく、きっちりと松永さんが管理し、「〇〇高校のものはありますか?」と聞けば即座に「あの棚にありますよ」と返ってくるほど。
もしも母校のものがなければ誰でも無料で1冊目をつくることができるが、その際、必ず「お酒を飲む前に」「名刺を貼り」「正確な卒業年を書かなければならない」など、厳重なルールがある。それはノートが、つくったひとりの客のものではなく、各校の卒業生全員のための大切なノートであるからだそう。
つまり松永さんは、ただでさえ大変な飲食業の女将を続けつつ、この膨大な量のノートの管理も、大切にされてきたというわけだ。
松永氏「ノートを1冊作るのにもけっこう時間と労力がかかるんです。お客様にとってはただひとつの母校のノートですから、ちょっとでも情報を間違えるなんてことはできないでしょう。ものすごく神経を使いますね。それに、お金だってかからないわけじゃない。今考えると、いくらかでもいただくようにすればよかったとも思うんだけど(笑)、やっぱりそれはできませんでしたね。だって、最初にお金を払ってつくった人が『自分がつくったんだから、自分で自由に書き変えたりしてもいいでしょ』なんて思ってしまったら、みなさんのノートではなくなってしまいますから。私がお預かりしている以上、私が責任を持って管理しなければいけないんです」
松永氏「全国に5000以上も高校があるうち、うちには今、3365校分のノートがあるんです。残りの高校のものがどうしてないかっていうと、目立ちたがり屋さんがいないことね。もうひとつは、こういうのに興味のない人が多い高校。あくまで私個人の印象ですけど、そういう校風っていうのもあるみたいね(笑)。たとえば、『〇〇高校のノートはありますか?』って聞かれて、ないんですとお答えすると、『じゃあ、まぁいいか』って。ただね、ここ数年増えたんですが、若い女性のグループでいらっしゃる人たちは、自分の学校のものがないと、必ず『私、つくります! 最初のひとりになれるなんて嬉しい!』なんて喜ばれて、つくっていかれますね。
だから、ノートをきっかけにお客様との会話が弾むなんてのはもう、毎日。私にノートを見せてくださって『これ、僕の親友なんですよ!』とかね。やっぱりノートに知っている名前があると嬉しくなって、名刺も貼ってあるから、久々に連絡をとりたくなるんでしょうね。それでみなさん、『ここで会うことに意味があるから』って、待ち合わせしてお店に来てくださるんですよ。ノートが縁で出会って結婚されて、お子さんが生まれて少し大きくなられた頃に、わざわざ私にお顔を見せにきてくださった方もいました。嬉しかったですね」
ただしもちろん女将さんも、誰にでもできることではない膨大なノートの管理をやめようと思ったことがないわけではなかった。しかしそこには、とくに印象的なエピソードがあってーー。
松永氏「やりはじめてみたら、まさかこんなに大変だとは思わなかったんです。お店も忙しかったし、はじめた当時はノートを書いてくださったお客様に、頻繁にお手紙を出したりもしていたしね。それで2007年に、ついに500冊目になった時、キリがいいから、もうこれで終わりにしようと思ったの。お店のみんなも『それでいいんじゃないか』と言ってくれてね。
ただ、ちょうどその日に、ナップザックを肩に背負ったひとりの男性のお客さんがいらっしゃったんですね。入り口に近いカウンターの席で、ノートを見ながら、静かに飲んでいらしてね。そしてお会計の時、ちょうど私が近くを通ったら、『女将さんですか?』って話しかけられたの。それで少しお話させてもらったら、『友達から、ここにそういうノートがあると聞いたから、それを見に来ました』って言われて。その方のお話が、今も忘れられないんです。
『自分は学校を出てからすぐに東京にでて、なんとかやってきたんです。だけど、いろいろと大変なことがあって、もうやっていけなくなってしまって。それで、今日ここで母校のノートを見たら、田舎に帰ろうと思っていたんです。だけど、今これを読んだら、最後にもう一度だけ、東京でやりなおしてみようと思ったんです』って」
松永氏「それを聞いた時、この1冊のノートがね、人の人生を変えてしまうほどの力があったということに、すごくびっくりしてしまって。私がノートをつくってあげているとかじゃなくて、ノートがあること自体が、いろんな方の心の支えになっているんだとわかって、私、感動しちゃったんです……。あぁ、これはやめられないって。それを私が勝手に、やろうやめようなどと決めていいわけがないって。あの日あの人が来なかったら、もうとっくにやめていたと思うんです。
もちろん、その後どうなったかは存じ上げません。その日、ノートも書かれなかったとおっしゃってたので、東京でうまくいったかもしれないし、やっぱり田舎にお帰りになったのかもしれない。ただ、今もまだこの空間があるのはあの方のおかげなんです。だからね、そういう意味で、お店をやっていくうえでいちばん会いたいのが、その方なんです。いつかもう一度、お店に来てくださったら嬉しいなって」
「次はいつ行こう?」と待ち遠しくなる酒場
ちなみに転機となった貴重な500冊目のノートを実際に見せてもらったところ、なんと僕の出身校である「日本大学第二高等学校」のものだったので、思わず鳥肌がたった。いや、なんの意味もない偶然ではあるんだけど、勝手に今日ここでお話を伺えたことが必然であるような気がしてしまって。
そんな、聞けば聞くほどに興味深い話がつきず、上品でいながらもほがらかな女将さん。きっと多くの常連客は、きっかけはよせがきノートだったとはいえ、それ以上に、女将さんに会いに店に通うのだろう。
もちろんこのご時世、大都会の一等地で大きな飲食店の経営を維持していくのは、並大抵のことではない。
松永氏「最近はみんなリモートで仕事するようになったから、新橋もサラリーマンの数が減ってるでしょ。だからうちだって、そりゃあ営業状態はあまり良くないですよ。
だけどありがたいことに、子供時代には寂しい想いもさせた息子が店を継いでくれてね。本当はもっと景気のいい時にお店を譲ってあげたかったけど、今はそうでもないのに。だけど、息子がいるから、やっと私は、いつ身を引いたっていいと思えるようになったんですよ。そんなことを言いながら、常連さんに『このノート、いつまでやるの?』って聞かれると『死ぬまで』って答えてるんですけどね(笑)。だってやっぱり寂しいじゃない。それに私は、仕事をしていた方が元気なの。だからなんとか、働けるかぎりは働きたいかな。みなさんのおじゃまにならないように」
そんな魅力ゆえか、ノートを目当てにやって来て、あまり注文もせずに思い出話で盛り上がって満足してしまうお客も、なかにはいるらしい。が、本記事にあるとおり、有薫酒蔵は日本でも類を見ない、ご主人や女将さん、そして店員さんたちの温かい気遣いに溢れた名酒場だった。なにより、本場の九州郷土料理はどれも絶品で、酒も豊富。ぜひ、思い出話に話を咲かせつつ、お店の方との交流を楽しみつつ、うまい料理と酒を味わいに行ってみてほしい。
ちなみに僕は、20種類以上あるというごはんもののメニューのなかから、東京では珍しい九州風の「肉うどん」がどうしても食べてみたくて、次はいつ行こうかとばかり考えている昨今だ。
執筆/パリッコ 撮影/タケシタ トモヒロ 編集/浅利ムーラン、鶴本浩平(BAKERU)