「日本語が乱れている」「その敬語は間違っている」。社会が不寛容になったのか、SNSが普及したせいなのか。“ことばの誤り”を指摘する声が、未だに目立つ。ただ、ある言語学者は「ことばはいつだって変わるもの。間違ってもいいんですよ」と、くしゃっとした屈託のない笑顔で言った。どういうことか? 教えてください、金田一センセイ!
(この記事は2022年8月に発行された『XD MAGAZINE VOL.05』より転載しています)
変わらぬことばは、死んだことば
金田一さん「“誤る”か……。“間違う”とは、意味が違うよね?」
ことばの誤りについて、どう思うか。尋ねると金田一秀穂さんはすぐさま、聞き返してきた。
東京・駒場の日本近代文学館のカフェでのインタビュー。しかも相手は、国語辞典やことばにまつわるテレビ番組でおなじみの、日本で最も有名な日本語学者である。おこがましくも「辞書によると“誤る”と“間違う”は同じ意味らしいんですよ」と答えてみた。
金田一さん「え〜。違うんじゃない? だって『道を誤る』と『道を間違う』って意味が変わってくるよね。“誤る”にはなにか道徳的なミステイクの意味を感じる。けれど“間違い”って、そこまでいかない単純な失敗でしょう。もっと軽くて『間違っちゃった。ごめんね。ぴえん』で済んじゃう感じがするよね(笑)」
あらためて、ことばの誤りに戻る。「日本語が乱れている」。そう指摘されることが、ままある。よくあるのが、ら抜きことばだ。「食べれる」「見れる」などと当たり前のように使われるが、本来は「食べられる」「見られる」が正しい日本語。「…できる」の意味を表す可能動詞である。
若い世代で目立つのは簡略語だろう。LINEでも口頭でも「了解しました」との返信を「りょ」だとか「おけ」と略す。「面白い」の意で使われていた“笑”のローマ字綴りの頭文字「w」、それが草の象形文字に見えることから「草」と書いたりもする。こうしたことばの誤用や変化にも、金田一さんは実に寛容だ。
金田一さん「かつてと使い方が違うからって、目くじらたてて指摘する必要はないよね。間違って使った方も『ごめんね』なんて言わなくていい(笑)。そもそもことばは常に変わり続けるもの。ことばは生きていれば変化する。変わらないのは、死んだことばってことですからね」
「気が置けないヤツ」と言われたら、あなたはどう感じる?
ことばは生きているからこそ、変化する―。それは今にはじまった話ではない。たとえば「だらしない」。きちんとしていない、整っていないことやものを指すこのことばは、かつて「しだらない」だったという。
金田一さん「江戸時代に、たぶん、どこかの粋なやつが遊び心で裏返しにして『だらしない』と使いはじめた。『なんだかそっちの方がしまりがなく聞こえるね!』と賛同者が増えて、いつの間にか『しだらない』より一般的になった、と言われていますね」
「独壇場(どくだんじょう)」もそうだ。その人ひとりだけが自由にふるまえる舞台を指す「独壇場」。本来は「独壇場(どくせんじょう)」が正しい読み方だ。「擅(せん)」が、よく似た「壇(だん)」と読み間違えられ続けた結果、「どくだんじょう」の読みの方が一般的になった。
金田一さん「どちらもことばがいきいきと変わった例ですね。意味が正しく伝わるならことばなんて変わっていい。あくまでことばは道具。コミュニケーションのためのツールですから。前さ、『日本人の9割が知らない日本の作法』 (小笠原清志著、青春文庫、2016年)って本があって結構売れていたの。『それはまずい。日本人としてその作法を知っておかなくては!』と買ったのでしょう。けれど冷静に考えてみたら、今すでに日本人の9割が知らず、使ってない作法なんて、それもう日本人の作法じゃないよね(笑)」
ことばも同じ。かつては正しかったとしても、今そのかたちで生き残っていないならば、もう使い方が変わったということなのだろう。金田一さんは、むしろ気にするべきは“正しいことば”か否かより「伝えたい意味が伝わっているか否かだ」と指摘する。たとえば“気が置けない”ということば。「彼は気が置けない友人だ」などと使うが、これを「気配りや遠慮する必要のある油断ならない友人だ」と捉える人が若い世代には多い。
金田一さん「本来はまったく反対。気が置けないとは『気配りなどをせず、気兼ねなく親密につき合える』の意味です。でも、今は半分くらいの人が『油断できない相手』と捉えるらしいんです。だから、『気が置けない』を使う場合は、『あなたはどっちの意味だと思う?』と尋ねた方がいい。『あ、あなたは油断できない、だと思う派? それなら“君は気が置ける友だち”です』と。ややこしいよね(笑)」
ただ、ややこしさこそ、ことばのもつ特性かもしれない。「そう。世の中って、そんな単純じゃないからね」
正しさと誤りの間を、ぐるぐると回れ
“今日、私が言いたいことは3つあります。ひとつは……” 金田一さんは、こうした定型的なプレゼン話法が大嫌いだという。
金田一さん「イーロン・マスクにしろ、今の大学生にしろさ。プレゼンとなると、みんな結論を先に言って、3つに分けて端的に論理的に説明する。何を言いたいか、とってもわかりやすいですよ。けれど、僕が知りたいのはわかりやすい結論じゃない。その結論に至るまでの“思考のプロセス”なんですよ」
だから多少わかりにくくても、ダラダラとぐるぐると「私はこんな経緯で、こんな風に考えて、またこうかもしれないと思いもして、いろいろあって、だから、こうなりました」と逡巡する。最後にようやく結論にたどり着く。それまでの思考の道筋をことばにしてくれた方が、よほど興味深いし、誠実だというわけだ。
金田一さん「だってね。人はことばで考えるんです。ことばにならない得体の知れないものを頭でこねくり回すわけではない。つまり書くこと、ことばにすることこそが、考えることになる。ことばはコミュニケーションの道具だと言ったけど、考えるための道具でもあるからね」
もとより、なんでも白黒がはっきりつくほど、現実はシンプルじゃない。正しさと誤りの間は、グラデーション状に滲んでいる。考えて、考えて。つまり、ことばをこねくり回したその先に、やっと真実にたどり着けるわけだ。
マークシートや選択問題で、ひとつの答えを追い求めてきたクセがつきすぎたのかもしれない。私たちは、すぐさまわかりやすく正解か誤りか、結論がなにかを急ぎ求めるようになりすぎではないだろうか。
金田一さん「クイズ番組からのオファーで、出題者とかやらされるじゃないですか。『答えはAかBか』と求められる。でも『ときにAで、Bでも間違いじゃない』って問題が多いんだよね。それじゃダメだって言われるんだけどさ(笑)。けれど、正しい答えなんてひとつじゃないし、もっと複雑なんですよ。この文学館に所蔵されている本を見ればわかるよね。井伏鱒二も寺田寅彦も村上春樹も、ひとつの作品に何百枚、何千枚とことばを書き連ねている。世の中は3つにまとめられるほど、わかりやすくない。結論なんてすぐには出ないからですよ」
しかし、テレビでもYouTubeでも、最初の数秒で視聴者が離れないように強烈な映像を流すのが常套手段だ。作曲家はいきなりキャッチーなサビから入るような曲を、ことさら求められるようになった。政治も同じだ。とにかくわかりやすいワンフレーズで大衆を心地よくさせる人こそが、よい政治家と見なされるようになった。わかりやすさばかり求めてきた私たちは、大切な何かを見逃しているのではないか。それこそ、大きな誤りのような気すらしてくる。
もうひとつ、金田一さんが嫌いなものがある。
金田一さん「Zoomみたいなオンラインミーティングね。嫌いというか苦手なの。理由? 遠く離れた人と話せたり、海外でもできたり、便利なんだけどね。あれって“気配”が伝わらないでしょ?」
誰かと対話するとき、私たちはことばだけで情報をやりとりしているわけではない。目の前に自分のことを慕う相手がいるときに醸し出される信頼感。着飾る必要なくリラックスして佇める安堵感。リアルな対面でしか味わえない、相手の気配がもつ情報量ははかりしれない。ディスプレイ越しのオンラインミーティングでは、そんな体温を交えた気配が感じられず、「つまらない」というわけだ。
金田一さん「ことばを交わさなくても、同じ屋根の下に家族やパートナーや友人がいて、気配を感じるだけでほっとしたり、うれしかったりするじゃないですか。気配って、正直なんです。『このひとは好き』『ちょっと苦手』ってことばでは取り繕えるけど、気配はごまかせない。気配は誤りようがないからね。それを切り離して記号言語だけでコミュニケーションを取ろうとする行為、テクノロジーはつまらないし、うれしくないよね。ことばから少しズレたけどさ」
なぜ人は『はじめてのおつかい』に、魅かれるのか。
ことばはコミュニケーションや思考のためのツール。だとしたら、私たちはどんなことばを選び、使った方がよりよいのだろうか。金田一さんは「自分の心に正直なことばですよ」と即答する。
金田一さん「谷川俊太郎さんって、とてもシンプルなことばで素晴らしい詩を書くじゃない。彼が『さようなら』と書いたら、本当にさようならと感じてしまう。洗いたてのジーンズみたいに身体にピタッと心地よく吸いつく。『どうしてあんなことば使いができるんですか?』って本人に聞いたことがあるんだ。するとね『自分の心に誠実に正直に書くことだよ』って言うんです。格好つけようとつくり出したことばじゃなくて、正直に自分の心から発せられているから響くんでしょうね、ことばは」
裏返せば、政治家のことばやマーケティングのためのキャッチコピーがどこか空虚に響く場合が多いのは、そのためかもしれない。格好よくてわかりやすい。けれど、正直ではないのだ。その対局にあり、最も正直で、誠実なことばを、私たちはあるテレビ番組で見かけられる。今年3月からNetflixで世界配信がはじまったことで、今世界中で話題の『はじめてのおつかい』だ。
金田一さん「僕もあの番組大好きだし、多くの人が好きでしょ?理由は、おつかいをする子どもたちが心のなかの正直なことば、“内言(ないげん)”を口にしているからですよ」
おつかい途中、番組に出ている子どもたちは「にんじん、買わなきゃな……」「あのおばさん、怖いなあ」「雨だ……困った。困った……」などと今まさに頭で考えていることをことばとして発する。これが“内言”、最も偽りのない、正直な心のことばだ。
人は3歳くらいで言語を理解して、獲得する。その後しばらくは目に入るもの、頭に浮かぶものをとにかくことばとしてアウトプットしたがる。楽しくてしかたがないのだ。しかし、成長するにつれて、次第に“内言”を外に出すのをやめる。妙齢の女性を「おばさん」と呼ぶと嫌な顔をされるリスクがあると理解し、いつも独り言を言っていると、「うるさい」「あやしい」と思われる。そう学ぶからだ。ようするに、大人になった自分たちが忘れた、正直で誠実なことばが、『はじめてのおつかい』にはある。一所懸命に考えて行動する子どもたちの、ウソではない本当のことばが垣間見れる。
金田一さん「子どもにもどれ……とまでは言わないけどさ。自分に正直に、心から思ったことを発する方がいい。その方が気持ちは通じるんですよ。正しい・正しくない、乱れている・乱れてない、じゃなくてね。正直なことばなら『りょ』だって、『ぴえん』だっていいよね。ことばって誰かのものじゃなくて、誰でもない全員のもの。一人ひとりのものなんだからさ。それが健全ですよ」
そして、最後はこんなことばでしめくくった。
金田一さん「間違ってたら、ごめんね(笑)」
取材・文/箱田高樹 写真/タケシタトモヒロ
取材協力/Coffee & Beer BUNDAN
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